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しづ 〈後〉
Shidu
次に男と会ったのは、その翌日だった。男の様子は、いつもと異なっていた。革の鞄が、その手にない。私に会うためだけに、図書館へ来たようだった。
「お知らせしなければならないことがあります」
ホールに来るなり、男はやや血の色を失った顔でそう言い出した。
「《しづ》の容態が、急に悪化したのです。昨日の晩から、病院に入りました」
「待ってくれ、容態とはどういうことだ」
「《しづ》は、先天性の病気を持っているのです。幼い頃に複数回の手術を受け、長く小康状態にあったのですが、昨日突然倒れました」
「そんな話は聞いていなかった」
「黙っていて申し訳ありません。《しづ》は、あなたにお会いしたら、まずこの病気の話をするつもりだったようです」
「それは大変なことになったな」
そう言いながら、しかし、私の心はすっかり冷めていた。どうやら、私の良くない予想が当たってしまったようだった。
「では、お見舞いに行かせてもらうことにしよう。病院名はわかるかな」
「お気持ちはありがたいのですが、今、《しづ》は人と会える状態ではありません。余計な刺激を与えることは慎まなければなりませんし、病院の方でも面会謝絶でしょう」
「そうか、残念だ」
既に私には、男が懸命に言い訳をしているようにしか見えなくなっていた。その姿は、滑稽ですらあった。
どうやら、《しづ》にまつわる話というのは、全くのでたらめであったらしい。
男の言うことは、おかしなことばかりだった。あまりに唐突で、脈絡がない。私に《しづ》という女から恋文が来たと思わせて、悪戯でもしているつもりだったのではないか。《しづ》という女など、本当はどこにもいないのだろう。
もっとも、動機の点では引っかかる。男と私の間には、少なくとも私の知る限りでは、接点がない。私は、運悪く何か性質の悪い賭けの対象にでもされたのだろうか。この大学には、存在しない恋人を待ち続けた女などという、都市伝説まがいの噂話がある。あるいは、その模倣でもしたつもりなのかもしれない。
そんな予感はしていた。しかしそれはほとんど確信に変わった。《しづ》と会うことが決まった途端、《しづ》は病気になったではないか。現実に、そんなに都合のいい偶然があるものか。そう思うと、《しづ》のたどたどしい筆跡も、わざと下手に書いただけの文字であるように思えてくる。
こんなことも考えていた。男は私をおびき出して、何か良くない企みを実行しようとしているのではないか、と。だから、私は待ち合わせ場所を慣れている喫茶店にしたし、しかもそれは警察署の前にあるのだ。
しかし、男があっさりと《しづ》を病気にしてしまったということは、これはどうやら杞憂だったようだ。
「《しづ》の状態については、またお知らせします」
男が緊迫した表情でそう言うので、私は適当に調子を合わせて「わかった」と答えた。もしかしたら、もう男が私の前に現れることはないかもしれない、と思った。賭けはもう終わったのだ。
ただ、私は形のはっきりしない空しさを同時に感じていた。そよ風のやんでしまったような、かすかな虚脱感があった。私はそれを、自分が過去に経験した失恋と並べてみようとして、やめた。
月が変わり、私が卒論の序に手を付け出した頃、男は私の前に現れた。私は男のことを、奇妙な思い出として記憶の端に仕舞っていたので、本当に面食らってしまった。
男は、少し痩せたようであった。久々に見たのでそう思っただけかもしれない。男は、開口一番こう言った。
「《しづ》が、死にました」
私はぽかんと口を開けた。
「入院してから、意識が澄んだり濁ったりを繰り返していましたが、とうとう暗くなったまま戻らなくなりました。幸い、静かな最期でした」
何も殺さなくったって良かったじゃないか、と言ってやりたかった。そこまでして嘘を成立させたいのか、と不思議に感じた。
「あなたには、大変なご迷惑をおかけしてしまいました。《しづ》のわがままに付き合わせてしまい、申し訳ありませんでした」
それはいい、もう君の賭けは終わったのだろう、とよっぽど言おうかと思った。しかし、男はこう続けた。
「最後にもう一つだけ、お願いがあるのです」
「何ですか」
うんざりした気持ちをあらわにして、私は答えた。いい加減にしてくれ、と思った。男は言った。
「《しづ》に、会っていただきたいのです」
私は瞬きをして、男の顔を見つめた。
「《しづ》のご家族は、あなたのことを知りません。ですから、葬儀に加わることはできないでしょう。ですが、告別式は、どなたでも参列できる形式で行われるそうです。どうか、あなたもおいでいただけませんか」
葬儀。告別式。今まで整然としていた脳が、波を立てて乱れた。《しづ》はいない人間だったのだろう? どうして《しづ》の葬式ができる?
「病院に入ってから、結局《しづ》は一度も口を利けませんでした。しかし、きっとあなたに会いたかったろうと思うのです。《しづ》が最後に見た夢です。どうか、叶えてやってくれませんか」
男にじっと見つめられて、私は固まってしまった。
私には、男が憔悴してしまったように見えた。男は、本当に《しづ》の死を悲しんでいるのだろうか。それとも、これすらも演技なのだろうか。
私の目に映るものは、全て私の解釈によって見えているはずだ。私は、《しづ》の存在を信じているのか、いないのか。自分のことが、自分でわからない。
「告別式は、明日の午後です。私も参列します。正午に、図書館の前でお待ちしています。おいでいただけるなら、ご案内いたしましょう」
そう言い残し、男は去っていった。
霧の中を歩いているような気持ちのまま、私は翌日の正午を、図書館前で迎えた。服も、それなりのものを着ていた。しかし、自分がどのように準備をしたのかは覚えていなかった。
「ありがとうございます」
後から来た男は、やはり礼服を身に着けていた。かすかに香の匂いがしたように思ったが、男の服に染み付いたものだろう。それとも、午前中に行われたであろう葬式に参列してきたのだろうか。私の頭は、何の判断も下せなかった。
男について歩く。その間、互いに口は聞かなかった。ただ、時折男が鼻をすする音が聞こえた。私はその音を、わざとらしいものだと思おうとした。
「そこに、案内が出ていますよ」
男が手で示す先を見る。やや狭い道に入る曲がり角に、黒い矢印の描かれた黒枠の看板が立っていた。私は顔を伏せて歩いた。
たどり着いたのは公共の式場だった。
「《しづ》は、こちらです」
私はしばらく、視線を落としたまま動けなかった。男が私の名を呼んで促したので、ようやく頭を上げた。
小ぢんまりとした告別室では、《志津乃》という名前の人の式が始まろうとしていた。
《志津乃》。それが、私に何度か手紙をくれた《しづ》なのだろうか。あったことのない私に、拙い字で恋文を書いてくれた《しづ》なのだろうか。
それとも、と私は男を見た。まだ、この男の悪戯は続いているのではないか。たまたま、《志津乃》という人物の告別式が行われることを知り、《しづ》が死んだことを私に信じ込ませるのに利用したのではないか。だとしたら、何のために? あまりに度が過ぎている。結局、この男は何だったのだ?
私は、ほとんど下を向いたまま、ただ男に付いて回った。顔を上げる勇気がなかった。式はいつの間にか始まり、進行しているようだった。あらゆる言葉が、水が手の間からこぼれるように、私の中を通過していった。
「お焼香です。行きましょう」
男が、小声で私に耳打ちした。私はなぜかびくりとした。男が図書館でいつも囁きかけてくる声と、よく似ていたからだ。やはり仕組んでいたのか、と声に出かかった。しかし、寸前で、それが意味の通らない言いがかりであることに気付くことができた。
男に次いで、祭壇の前に行く。私は恐ろしかった。私はまだ、《志津乃》の写真を見ていない。《志津乃》の顔を見ていない。私は、《志津乃》を知らない。しかし、《しづ》の顔を想像したことはある。そういえば、年齢も知らなかった。勝手に、自分より少し年の若い女だと思い込んでいた。《志津乃》はどんな顔をしているのだろう? いや、《志津乃》と《しづ》は関係ないではないか。私は、《志津乃》と《しづ》の間を行ったり来たりした。疲労に似た重苦しさが襲ってきた。
私の前で、男が焼香を終えた。私は、おぼつかない足取りでそれに続いた。曖昧な作法で焼香を行い、そして、最後にとうとう、私は祭壇の写真に目をやった。
それは、私の想像していた《しづ》の姿そのものだった。
いや、それとは全く違っていた。
私の膝から力が抜けた。心配してか、待っていた男が、私を倒れる前に支えた。「大丈夫ですか」と声をかけられた。私は自分が目を開いているのか閉じているのかわからなかった。
私は確かに《志津乃》の写真を見た。《志津乃》とは誰だ。それは《しづ》か。あれは《しづ》か。あれは《しづ》だった。そうではなかった。あれは誰だ。あれは《志津乃》だ。《しづ》は誰だ。誰だ。誰だ。
私は廊下に出ていた。男が、引きずるようにして私を連れ出したらしい。男は「出棺まで、少しお休みになるといいですよ」と言った。その後しばらくの記憶はない。
男に外へ出るよう言われた。
真っ白な太陽が目を突き刺した。
出棺の時間だった。
誰が出ていくんだ。誰がいなくなってしまうんだ。《しづ》か。 私に恋をしてくれた《しづ》か。私は――《しづ》に恋をしていたか。
隣に男がいる。これはひどい悪戯だ、悪戯なら白状しろ。そう言おうと思った。しかし、男の目が赤く充血しているのを見つけて、私の言葉は凍った。
どっちだ。《しづ》は、本当にいたのか。本当に存在して、私に手紙を書いてくれていたのか。男の目は本当に赤いのか。私は、どちらの真実を望んでいるのか。
「一体、何の冗談なんだ」
私は、ほとんど泣き出しそうになって叫んだ。
しかし私の声は、出棺を告げる長いクラクションの音にかき消された。
(2007.05.11)
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