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しづ 〈前〉
Shidu

 その男のことを以前から知っていたか、と聞かれれば、そうとは言えない。私は卒論執筆のため毎日図書館に通っており、男は最近、そこにしばしば顔を出すのだった。研究目的ではないのか、漫然と本を読んでいたが、どうも私の方にちらちらと視線を送ってくるようなのだ。気になってはいたが声をかけたことはなく、もちろん名前も知らない。
 男が私の肩を叩いたのは、私が近世文学関係の資料を集めているときだった。本棚から借り出した読本を三、四冊、重ねて机に置いたところで、男がすっと寄ってきた。男は背が高く棒のようで、腰をかがめて「すみません」と囁いた。
「あなたに渡してほしいと、手紙を預かっているのです」
 男は落ち着いた様子で、手にしていた皮製の鞄をあさり、白色の封筒を出した。封じ目に〆が書かれている以外は真っ白で、差出人もわからない。
「誰からだい、これは」
 そう尋ねると、男は曖昧に笑んで答えた。
「僕は、この手紙を書いた人に頼まれただけですから」
 要領を得ない。男は、私の前にある読本の上に封筒を置くと、足早に去っていってしまった。
 これが、最初だった。

 翌日、図書館でその男を見かけた私は、自ら男に近付いた。
「君、これはどういうことだ」
 窓際の机に席を取り海外小説らしい本を読んでいた男は、顔を上げた。
「これを書いたのは誰か、教えてくれないか」
「それは、手紙の中に書いてありませんでしたか」
「《しづ》と署名があるだけだ」
「そうです、あの手紙を書いたのは、《しづ》ですよ」
 私は眉を寄せた。
「そんな名の人は知らない。渡す相手を間違えたのじゃないか」
「いいえ、あなたは――さんでしょう」
 男が私の名前を確認した。私は面食らった。どこで私の名前を知ったのだろうか。
「しかし、《しづ》というのは聞いたことがない。これは、女性だろう」
「ええ、そうですよ」
「君は、手紙の中身を……」
 語尾を濁すと、男は察し良く言った。
「読んではいませんが、話は大体聞いています。《しづ》は、あなたにすっかり夢中のようです」
「わからない」
 私は首を横に振った。
「《しづ》とは何をしている女だ。私のことを好きだという。しかし、私の方では全く覚えがないのだ」
「そういうことも、あるものでしょう」
「よくあることとは思えないな。知らない女から恋文とは」
 近くの席で、わざとかどうか、誰かが咳払いをした。声を抑えているとは言え、図書館内での私語が耳に障ったのかもしれない。私はいっそう声を落とした。
「君は、この《しづ》とどのような関係なんだ」
「それは、どうでもよいことでしょう。私は、《しづ》の使いをやっているだけですから」
 男はそう適当にはぐらかすと、本に視線を戻した。私はしぶしぶその場を離れようとした。
 男の声が、背中から追ってきた。
「《しづ》は、返事を欲しがっていますよ」

 図書館から数日遠ざかっていたのは、今までに集めた資料の整理をするというのが名目だったが、男を、ひいては《しづ》を避けていたというのも否定できない。しかし、どうしても材料が足りない。私は図書館に足を向けた。
 本棚の間で、偶然男と行き当たってしまった。男は表紙に『F・R・ストックトン作品集』とある本を立ち読みしていたが、私に気が付くとページの間に指を挟み、話しかけてきた。
「《しづ》からの手紙があります」
 前と同じように、肩に提げた革の鞄から取り出された白い封筒が、私の手に押し付けられた。
「近頃、ここでお見掛けしませんでしたね。もし《しづ》へのお返事を書いていただけたのなら、お預かりしましょう」
「書いていないよ」
 私は、努めて無愛想に答えた。
「素性のわからない女に、返事を書こうとは思わない。それなら、一度《しづ》とやらがここに来てくれればいいのだ」
「事情があって、《しづ》は外に出て来られないのです」
「だったら、せめて写真でも見せてくれないか。そうだ、電話で話すのでも良い」
 私としては、ここまでする必要はないというくらいに、譲歩したつもりだった。しかし、男は申し訳なさそうに言った。
「そういうわけにはいかないのです。どうかご理解ください」
「理解しろと言われても、説明が足りないのでは仕方がないじゃないか」
「《しづ》は、まだあなたに会う勇気がないのです」
「だったら、こちらの方から関わる義理もないよ」
「あなたに嫌われることを恐れているのですよ」
「それは勝手な言い分だ。君も、もう少し話そうという気にならないのか」
「余計なことを言っては、《しづ》に咎められてしまいます。とにかく、手紙を読んでいただきたいのです」
 一点張りで、埒が明かない。初めから無視に徹しておけば良かったのかもしれない。苛立ちを隠すつもりはなかった。
 すると、男は目を伏せて静かに言い出した。
「《しづ》は、自分だけの殻に籠もりがちで、他人に興味を持つことをしませんでした。それが、あなたを知ってからは変わってきました。あなたのことを知りたい、あなたと言葉を交わしたい、そう思っているようです。顎を上げて、周りを見始めたのです」
 私はその言葉より、むしろ男の態度を意外に感じた。今まで淡々とした口調を貫いてきた男が、初めて自らの感情のようなものを表に出したと思ったのだ。
「今は、《しづ》に代わって僕が来ていますから、あなたが訝しくお思いになるのも当然です。しかし、あなたが《しづ》に近付いてくださったなら、彼女も心を開いてくれるかもしれません。《しづ》は、人と関わるということに、ほとんど心身を使ったことのない女です。手紙など、初めて書いたかもしれません。その《しづ》が、あなたに手を伸ばしたい一心で書いた手紙です。どうか、報いてはいただけませんか」
 男は、熱のこもった視線で、まっすぐに私を射抜いた。
 私は、それでも自分には全く関係のないことだと、言い張ることもできたのだ。
 しかし、私はその場で手紙を読み、また丹念に読み、ノートの紙を一枚破り取って、そこに簡単な返事をしたためた。男は、その紙を丁寧に折り畳んで、大事そうに持ち帰った。

 こちらから行動を起こした。さて、《しづ》はどう出てくるだろうか。そう思っていると、今度は、男の方を図書館で見かけなくなってしまった。
 閉架本を持ち出し、必要なところをノートに引き写しながら、私は数日をやきもきして過ごした。実際、自分がこれほど《しづ》のことで気を揉むことになるとは、想像していなかった。鉛筆の粉で手を黒くしながら、ふと《しづ》からの手紙にあった文言が頭に浮かび、しばらくぼんやりしてしまうようなことが何度もあった。
 一週間ほど間が空いて、ようやく男が現れた。私は目を合わせて彼を誘い、人のいない書庫で話を始めた。
「遅くなって申し訳ありません」
 男はまず頭を下げ、それから革の鞄を開けた。私は期待を込めて男の動作を見つめ、その自分の心持ちに戸惑った。果たして、出てきたのは白い封筒だった。
「《しづ》も、決断に悩んでいたようですが、何とかご希望にそえるようです」
 一瞬、男の言っていることがわからなかった。急いで封を開く。《しづ》のたどたどしい筆跡に、何となく親しみを感じている自分に気付いた。手紙の内容は、私と会う機会を持ちたい、ということだった。
「前のお返事で、《しづ》と直接連絡を取りたい旨、お書きになったそうですね」
「やはり、それをしないとどうしようもないからな」
「結果としては、本当に良かったと思います。ありがとうございました」
 私は、男の顔をまじまじと見た。
「君は、《しづ》の兄か何かかい」
 男の右眉がぴくりと動いた。その眉の動きが何を表すのか、私にはわからなかった。
「いいえ、違いますよ」
「しかし、君は《しづ》のために、ずいぶんよくやっているようだね。君達がどういう関係にあるのか、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか」
「僕は、本当に《しづ》に頼まれているだけなのです。僕自身のことは、どうでもいいでしょう」
 男は頑なに自分のことを話さない。本人の言葉通り、ただ使者としての役割を果たすだけなら、彼が特に自己紹介をする必要を感じないのもわかる。ただ、私には他の考え方もあった。
「では、《しづ》はどうなんだい。そうだ、《しづ》はどこで私のことを知ったのだろうね。外出は、あまりしないのだろう」
「それこそ、《しづ》本人に聞いてみてください。彼女は、人と対話することに不慣れですから、話題を多く残しておいた方が良いようです」
 はぐらかされたような思いで、しかし私は頷いた。《しづ》から会うことを提案してくれたのなら、それに従ってみるべきだ。もし、私の予想していることが不幸にも当たっているなら、それは自ずから明らかとなるだろう。
 私はまた、ノートを破って返事を書いた。会う場所には、馴染みの喫茶店を指定しておいた。そうしておきながら、私は《しづ》の容姿を想像して、戒めるように自分の頭を振った。どうやら私は、《しづ》に会いたがっているようだった。
(2007.05.11)

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