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食後にチーズはいかが
Est-ce que vous avez du fromage?

 ビストロ・ル・フロマージュの裏手で、俺は老給仕の胸ぐらを掴んだ。奴が苦しむのにも構わず、ぎゅうぎゅうと締め上げる。
「アデリーヌ嬢のチーズに毒を入れただと?」
「ほんの出来心だったのでございます」
「出来心で済むか」
 俺は噛み付かんばかりの勢いで、ニッグと名乗った給仕に迫った。
「どうして毒なんか入れた」
「間違いなのでございます。アデリーヌ様に毒を盛ろうなどという気は、一切ございませんでした」
「どういうことだ」
「わたくしは、本来この日に予約を入れていた男に恨みがあったのでございます。そこで、本日のために用意された熟成中のチーズに、遅効性の毒を仕込みました。ところが、男は急に予約をキャンセル、そこにアデリーヌ様のご予約が入ってしまったのでございます」
 天を仰いだ。何たることだ。
「そのチーズを食べたらどうなるんだ。死ぬのか」
「いえ、命に別状はありません。ただ……」
 忌々しき給仕は、ぐっと声を潜めた。
「恐れながら、口に出すのも憚られるような下品な出来事が、彼女を襲うことでございましょう」
 俺は考えつく限りの悪態をニッグにぶちまけた。
「とにかく、今日はチーズを出すのをやめてくれ」
「とんでもないことです。素晴らしいデートの最後にチーズを召し上がらないフランセーズがいるでしょうか」
「毒入りとなれば話は別だ!」
「しかしチーズは当店の名物でございます。それを提供しないのは、あまりに不自然です」
 店名にル・フロマージュチーズと入れているくらいだから、当然のことだろう。一方で、大衆食堂ビストロというのは名ばかりだ。ここはれっきとした高級レストランである。客は一日一組と決まっていて、常に貸切だ。アデリーヌ嬢のような資産家の娘が、俺のような荒っぽいプライベート・ガードマンを外に待たせて、悠々とデートを楽しむための店なのだ。
「ですからお願い申し上げているのです、どうか一刻も早く食事を中断させてください」
「そんなことができるか」
 俺は唸るように言った。アデリーヌ嬢の食事の相手は、彼女の恋人であるレオン・ジェジェーヌ・リシュパン氏だった。こちらも、アデリーヌ嬢の家には劣るものの、事業で成功した成金の息子である。この二人が婚約するとなれば、財界の勢力図にも影響を与えかねないらしい。
 何より、美しくわがままなアデリーヌ嬢が、デート中の不手際を許すわけがない。気分を害したとあらば、虫けらか何かのようにこの店を潰して、とばっちりで俺までクビにしかねない御方である。
「毒を入れていないチーズはないのか」
「本日当店でお出しするにふさわしいチーズには、ことごとく毒を仕込んでございます」
 むしろ誇らしげに言うニッグを、俺は本当に殴りつけてやろうとした。が、青痣のある給仕をアデリーヌ嬢が喜ぶとは思えなかったので踏みとどまった。ニッグも危険を察知したのか、すすっと俺から離れた。
「わたくし、そろそろ仕事に戻らなくてはなりません。シェフに申しまして、お料理を少々たっぷりめに提供いたします。それでチーズを諦めてくだされば良いのですが、こればかりはお客様次第ですから何ともわかりません。どうかあなた様も、ご配慮いただきますよう」
 そう言い残し、優秀なる給仕は足音もなく店内へと戻っていった。俺はその後ろ姿に向かって、もう一度悪態をついた。

 素晴らしい料理であるらしかった。まずアミューズとして小さなシュー。前菜は塩漬けにしたポークのテリーヌで、パセリの爽やかな香りが空腹を思い出させる。サラダには新鮮なタコのカルパッチョがたっぷり。スープは、この上なく贅沢なコンソメがひけたとあって(年に数度のことらしい)、シェフ一押しの一品だそうだ。メインは、アデリーヌ嬢は黒むつのポワレ、レオン氏はほろほろ鳥のソテーを選んだ。ワインは、ソムリエが選んだ上質なブルゴーニュ産を最初に一本と、レオン氏が事前に持ち込んでいた貴重な年代物が一本――
「もうやめてくれ、たくさんだ」
 何しろ、ニッグが料理を出すたびに外に来ては、俺にコースの内容を話すのだ。腹ばかり減ってかなわない。
「いつもならわたくし、常に店内で控えているのですが、本日はなるべく二人きりでいたいとの御所望ですので……」
 ニッグの話と、漂ってくる豊かな匂いにくらくらしていた俺を見かねたのか、奴は厨房からシューをくすねてきて俺に渡した。こんなもの、これから豪勢なフルコースが来るとあれば腹の慰みにもなるだろうが、一個だけでは子供の菓子だ。しかし、つい食べてしまった。悔しいことに、ここ十年食べたものの中で、一番うまかった。
「あんたは優れた給仕のようだが」
 あんまり頻繁にニッグが来るので、俺は一度話しかけた。
「自分のところの料理に毒を入れるとは、とんでもない奴だな」
「わたくしは、あの男に全財産を奪われたのでございます」
 ニッグは淡々と言った。物静かな彼の、かえって怒りがにじみ出ている気がした。
「大丈夫でございます。非常にゆっくりと効く毒でございますから、当店の食事が原因だとは、容易にわからなかったでございましょう」
 老給仕は薄く笑みを浮かべていた。俺は何だか背筋が冷えた。ニッグはふと真顔に戻ると、「わたくし、お客様の様子を見てまいります」と中に戻っていった。間もなくメインの皿を下げるというから、いよいよチーズの登場である。
 もちろん、それは阻止しなくてはならない。方法としては、何か偽の用事を持ち出して、アデリーヌ嬢を帰らせるというのがある。しかしそれではすぐばれるだろうし、彼女を間違いなく怒らせる。レオン氏の方を呼び出す手もあるが、嘘がばれるのは同じことだ。俺の頭では、これ以上の方法は見つからなかった。
「失礼いたします」
 脇から急に声をかけられて、わっと飛び上がりそうになった。このニッグ、殺し屋もかくやというほどに、全く気配なく動くのだ。きっとこの店の客になってみれば、給仕の存在に気付くこともなく、いつの間にか料理が並んでいるという寸法になるのだろう。
「少々、お耳に入れたいことが」
「何だ」
「レオン様のことなのでございますが……ただ今、電話をおかけになると言って、席をお立ちになりました」
「そりゃあ、社長業もやっているくらいだ、食事中に電話することだってあるだろう」
「それが、わたくしが電話の場所にご案内しようとしましたところ、断って外に出てしまわれたのです。どうも不穏な空気でございます。様子を伺っていただけませんか」
 そんなにおかしなことだろうか、と俺などは思うのだが、給仕となれば人を見る目もあるのだろう。ニッグに連れられて、レオン氏が向かったという店の横に回ってみた。
 驚くべきことに、レオン氏は小さな携帯電話ではなく、相当に大柄で屈強な男を直接前にして会話をしていた。偏見のようではあるが、まず間違いなく、柄の良くない種類の男であった。俺はニッグを手で制しつつ、ゴミ箱の陰に身を潜めた。
「――これからチーズが出て、それからデザートだ。まだ三十分、もしかしたら一時間ほどかかるだろう」
「ずいぶん遅くなるな。待たせた分の金はもらうぞ」
「仕方ない。……しかし、確実に頼むぞ」
 レオン氏は簡単に告げて、店の入り口へと戻っていった。なるほど、不穏である。しかも、これはアデリーヌ嬢の上にかかる暗雲のようだ。柄の悪い男は、レオン氏が去るのを待っていたとばかりに、煙草を吸い始めた。
 俺はなるべく静かに立ち上がると、給仕ほどではないだろうが音を立てないように、男へと近付いた。そして、とんとんとそいつの肩を叩いた。男がぎょっとして振り向いたところに、いきなりこう言ってやった。
「アデリーヌ嬢のことだが――」
 反応はてきめんに現れた。岩のような拳が、一瞬前まで俺の頭があった空間を薙いだ。俺はかがむと同時に、そいつの腹の柔らかい部分にストレートを叩き込んでやった。男の身体がくの字に折れたところで、そいつの右腕を思い切りひねりあげた。男はあられもなく甲高い悲鳴をあげた。
 ここから俺がやったことは、教育的見地に照らし合わせて不適切だろうと思われるので、詳しくは書かない。ニッグは目を手で覆っていたが、男が声をあげるたびに、指の隙間から覗いていたようだ。
 とにかく男から(教育的見地に照らし合わせて不適切な方法で)聞き出したところによると、こいつは帰りがけのアデリーヌ嬢に襲いかかるよう、レオン氏から頼まれたのだという。そこを、レオン氏が華麗に助け出す。そうすれば、二人の婚約は確実なものとなり、レオン氏とその一族は莫大な利益を受けることになる。
 呆れてしまった。レオン氏はそれほど頭の良い男ではなかったらしい。しかし、ロマンティックなアデリーヌ嬢には、確かに有効かもしれない。
「まいったな……」
 何となく呟いたときに、隙ができた。男は俺の腕を振り払うと、一目散に逃げ出してしまった。追いかけようとしたが、見かけによらずそいつの足は速かった。俺はすぐ諦めた。
「どうするのでございますか?」
「どうするも何も、レオン氏を引っとらえるしかないな。このことが明るみに出れば、あっちの家は大損だ。莫迦な息子のせいで、気の毒に」
 それは何気ない台詞だったが、この瞬間、ニッグの表情がぱっと明るくなったのを俺は見た。あまりに劇的な変化で、俺は言葉を失った。
「何かあったか?」
 つい上ずった声で問いかけてしまった。ニッグはあふれ出す笑いを抑えられないまま話し始めた。
「お客様のプライベートに関することは申し上げられません。しかし――」
 この辺りで、ニッグの顔は引き締まった。
「常識あるお客様は普通、レストランの予約を単に断ったりはしないものです。特にわたくし共のような、一日一組のお客様しか迎えないビストロでは、直前のキャンセルは致命的になります。そこでお客様は、来られなくなったご自分の代わりに、ご友人などにご予約のテーブルを譲ってくださいます」
 俺は給仕の目をじっと見つめた。
「例えばの話ですが、わたくしの憎んでやまない仇も、レストランの客としては良心のある部類だったのやもしれません。だとすれば、自分の代わりに、そう、息子のデートにこの店を使わせることだって、ないとは言えないでございましょう?」
 ニッグが一息で言い終えると、俺はため息をついた。何だか、いろんなことが嫌になった。
「皮肉なものだな」
「まったくでございます」
 ニッグは、しかし真顔のままだった。
「ところで、わたくし、一つ提案があるのでございますが……」

 アデリーヌ嬢を狙う暴漢が店の外で見つかった。とりあえずは追い払ったが、安全のために、すぐお帰りください――
 とニッグが告げると、アデリーヌ嬢は息を呑んだ。このときのレオン氏の顔と言ったら見物で、みるみる上気する様は、カルパッチョにされたタコに似ていただろう。
 暴漢がいたのは本当で、いずれ見つかるかもしれない。とにかく嘘はないし、俺に非がないのは確実である。
アデリーヌ嬢は、すぐさま帰宅することを決めた。レオン氏も、びくびくしながら立ち上がった。
アデリーヌ嬢の荷物を持って近づいた俺は、レオン氏の耳元で、彼にだけ聞こえるように囁いた。
「全部知っているぞ」
 レオン氏の顔は真っ青になった。さっきから血が上ったり下がったりで、身体にはさぞかし良くないことだろう。もちろん俺は同情などしない。
 俺が開けたドアを通って、アデリーヌ嬢は華麗な足取りで店を出ていった。ふらふらとレオン氏がついていこうとしたところに、声がかかった。
「お待ちください、お客様」
 ニッグが音もなく姿を現したので、レオン氏はびくっとした。
「お土産でございます」
 ニッグは小さな包みを差し出した。包装紙には、ル・フロマージュの文字。
「どうぞ、ご自宅でお楽しみいただきますよう。本日はありがとうございました」
 そう言って、深々と頭を下げた。レオン氏は小さく舌打ちして、アデリーヌ嬢を追いかけるように外に出た。
「大したお土産だ」
 俺はそう言い残し、二人の後を追った。背中に、慇懃無礼な声がついてきた。
「当店でチーズを出さずにお帰りいただくわけにはまいりませんからね」

 レオン氏が今どうなっているか、俺はまだ知らない。少なくとも、口に出すのも憚られるような下品な出来事に襲われていたのは確かだろう。しかし俺の仕事は愛すべきアデリーヌ嬢をお守りすることであり、それは十分に達成できた。めでたしめでたし、である。
(2008.11.04)

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