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愉快な手紙 〈後〉
The Enjoyable Letters

 家に帰ると、妻は明らかに不安げな表情を浮かべていた。またあの手紙が届いたのだと想像がついた。前の手紙が来てから、三日しか経っていない。差出人は、私が前の手紙に反応しないらしいことを知ってすぐ、次の手紙を書いたらしい。
「あなた、本当に、この人のことを知らないの? お友達だったら、すぐに連絡してあげて。そうでないなのなら、ああ、私怖いわ」
「落ち着くんだ」
 私は妻の肩に手をかけて、ゆっくりと言ってやった。
「大丈夫。何も実害が出たわけじゃないだろう」
「でも、訳のわからないことは怖いの」
「そうだな。確かに、不気味なところもあったかもしれない」
 玄関でそんな状態になってしまったので、とにかく妻の手を引いて、リビングに入る。二人で並んでソファに腰掛けた。
「水でも飲むか。気付けなら、ブランディも出してくればあるが」
「いいえ、いいんです。それより、あなた」
「わかっている。言おうか言うまいか考えていたんだが、その様子だと話した方が良さそうだ」
 せわしなく黒目を動かしていた妻が、ふと私に視線を定めた。これを好機として、話し出す。
「差出人が誰だかわかったよ。彼は、彼の言うような私の友人ではない。うちの会社と取引をしている、広告会社の営業だ」
 まあ、と言うような形に妻の口が動く。
「あまりいい話ではないが、彼の会社と私の会社とは、取引に関して問題を抱えている。私のしている仕事は、結果的に彼の会社に不利益を与えることになる」
 妻は心苦しそうな表情を見せた。「君がそれを気にする必要はないんだ」と、ここは語調強く言い聞かせた。
「だから彼は、そう、私の情に訴えかけるとでも言うのかな、何としてでも彼の会社を守ろうとして、それであんな手紙を出してきたのだろう。金を貸せ云々というのも、私個人と言うより、会社同士での話さ。大体、私には、こんな同級生はいなかったよ。だからでたらめだ」
 悪質だ、という言葉はさすがに意味が強いと思って、言うのをやめた。
「だが、相手がわかれば大丈夫だ。直接話をすることもできるし、もし話がうまくいかないようなら、これは仕事絡みの話にもなるから、相手の会社に抗議することだってできる。もう心配することはない。私に任せなさい」
 説得するように、私は頷きながら言った。聞き終えて、妻は長いため息を漏らした。
「仕事の話をして悪かった。あまり気持ちのいいことでもなかっただろうし……」
「いいえ。私こそ」
 妻は目を細めた。多少無理はあったが、もう動転したような様子はない。私はほっとした。
「後は私が何とかしよう。もしまた手紙が届いたら、君はただそれを私に渡してくれればいい。何も気にしなくていいよ。心配をかけて、悪かった」
「とんでもないわ。ああっ、ごめんなさい、お味噌汁を火にかけてないわ。今、準備しますから」
 早足にガスコンロの方に向かった妻の背を見て、私は肩の力を抜いた。これで、とりあえずは収まった。まだ何も解決はしていないが、何なら第三者を間に立てて、手紙の差出人に連絡を取ってみてもいい。
 気が楽になってきたところで、今日の手紙を開いた。また便箋五枚に渡る大作だ。
 やはり中学時代の思い出が述べられており、今回は修学旅行のことが中心だった。差出人と私とは、二泊目の旅館で四人部屋の同室になり、皆で一晩中眠ることなく語り明かした、らしい。そのことが、思い返すだけで笑みのこぼれるような、懐かしい記憶として語られている。
 私にとっては前の二通と同じことだ。こんなことはなかった、と言うしかない。
 では実際の私の中学時代は……とは、できれば考えたくないと思う。もう一度戻ってやり直したい、という言い方もあるだろうが、私は二度と中学の頃に戻りたくはない。
 別に、親しい友人のいないことが嫌だったわけではない。私は本を読むのが好きだったし――その点では手紙の内容は合っていることになる――、一人でいることそのものは苦にならなかった。
 ただ、それをからかってくる連中がいたのには参った。手紙の話ではないが、修学旅行のときだってそうだ。普通旅館では仲の良い者同士が同室になったものだが、私にはそのような相手がいなかったので、適当な部屋に入れられた。最初の内、私以外の全員が、共通の話題で喋っていた。ときどき上がる甲高い笑い声を気にしなければ、それはそれで構わなかった。しかし、途中でふっと話が途切れたとき、連中は私を標的に据えた。矢継ぎ早にくだらない質問を投げかけては、しどろもどろになった私の答えを、口真似して繰り返した。私がむっとして黙り込むと、今度はうつむいた私を覗き込んで、その顔真似を大げさにやっては笑い合っていた。笑いというものに、これほど嫌な種類が存在するとは思っていなかった。
 これらはもう全部過去のことだ。この手紙がきっかけで思い出すことにはなってしまったが、今そのことで落ち込む必要はない。あの決して明るくはなかった思い出が、現在の自分にどれほどの影響を与えているというのだろう? 私は仕事も順調で、生活に困ることはなく、何より素晴らしい妻がいる。休日には妻と出かけることが楽しみだし、年に何度か旅行をする趣味だって持っている。
 前向きに考えれば、この手紙は愉快なものだとすら言えるかもしれない。この差出人は、私がとうとう得ることのできなかった、いかにも少年らしい、未熟で物を知らなくても毎日が満ち足りている、そんな青春時代を表出してくれているのだ。もしかしたらあったかもしれない、ただどろどろとした黒い気持ちが渦を巻いているだけでない、そんな若い頃がこの手紙の中にはある。
 差出人が問題ではない。ただ、そのような手紙が届くということが、私には愉快なことのように思えてきた。夕食を食べながら、妻にそのことを、散歩をしてきた話でもするようにかいつまんで聞かせた。妻もそれで安心したようだった。

 ある企業との交渉が最終段階に入った。私が直接、出向いてきた相手と話をすることになった。相手に明らかな非があることと、部署の担当者が粘ってくれたおかげで、こちらの要望はほぼ全面的に呑まれそうな様相であった。
 担当者と共に会議室に入る。ここでサインと印を交わせば、それで一段落つく。
 だが、「今日の相手ですが」と言って渡された書類を見て、私は表情を曇らせた。相手方の代表者が、例の手紙の差出人だったのだ。名前以外を確認したわけではないのだが、名字が少々変わっていたので、別人という偶然もないだろう。
 忙しさにかまけて、手紙についてはまだ何も対応していなかった。最初に出会うのが公式な仕事の場というのもおかしいかもしれないが、逆に好都合かもしれないとも思えた。相手方が無理な要求をしてくることも予想できた。そのとき、手紙の件をちらつかせれば、それは武器になるかもしれなかった。あの手紙は、不可解な文章を取引先の一個人に送りつけたということで、相手にとってのマイナス材料になり得る。
 そんな計算をしている内に、相手方の社員二名が会議室に入ってきた。立ち上がって挨拶を交わし、私は初めて顔を合わせたので、名刺交換をした。
 見た目で大体わかっていた。私と同じ年頃の、背の低い男が問題の差出人だった。いかにも親しみを込めているというような笑顔は、紙に書いた面のようにわざとらしかった。
 向かい合う席について、話を始めた。こちらからは、ほとんど決定事項を述べるだけだった。後は、これに相手がどれだけ抵抗してくるかだ。
 案の定、相手方二人は食い下がった。最悪の場合、企業の存続すら危うくなる状況なのだから無理もない。私と担当者は、時に激昂しそうになる相手をなだめながら、説得を繰り返す。既に契約で決まっている部分もあり、そこはもう動かしようがないので、何と言われようと「それはできません」と答え続けることもあった。
こ んな不毛なやり取りで、二時間余りが過ぎた。業を煮やした担当者が「休憩を取りましょう、お茶を汲んできます」と言って立ち上がった。相手方の若い社員も続くように、「失礼して」と会議室を出て行った。手洗いにでも行くのだろう。
 部屋に、私と、手紙の差出人とが残された。
 私からは口を開かなかった。今は公的な場で、手紙の話題は真っ先に持ち出すべきことでもないだろうと考えたからだ。しかし、相手はすぐに切り込んできた。
「手紙は、読んでくれなかったのか」
 一瞬、口調の変化に戸惑った。ここまでは、互いに敬語で話してきたのだ。しかし、相手の口調は手紙と同じものになっていた。
「手紙は読みました。ですが、私にはあなたの言っていることがわかりません。どういうおつもりですか、あんな手紙を出して」
 私は極力穏やかに話を進めようとした。
「どういうつもりも何も、ちょっと便宜を図ってもらいたいんだ」
「その話を、今しているところでしょう。私個人に言われても困ります」
「そうじゃなくてさぁ」
 差出人は、ぐっと身を机の上に乗り出した。作られた表情の張り付いた顔が、私に近付く。
「このままじゃあ、うちの会社は潰れるよ。あんた方が潰したんだ」
「言葉の使い方は気を付けた方が良いと思いますよ」
 私は初めて恐ろしさを覚えた。早く若い社員達に戻ってきてほしかった。この男と二人きりでいたくなかった。
「仕事をなくしたら、俺はすぐ路頭に迷ってしまう。それは困るんだ。だから、ちょっと金を貸してほしいって頼んでるんだ」
 私は少し目を見開いた。
「会社のことではなくて……ですか」
「いずれ潰れるんだ、こんな会社は。俺はまず、俺自身の生活を救う方が急務さ。なあ、少しずつでいいから、定期的に工面してくれないか」
 差出人は頬の肉を動かして、唇の端を上げた。
「俺達は、古い友達じゃないか」
 背筋を寒気が駆け抜けていった。
「それは勘違いではないですか」
「冷たい奴だな、お前は」
「失礼ですが、あなたと親しかった記憶はありません」
「一緒に店に行って、サッカーボールを手に入れようとしたじゃないか」
 あのとき、彼は私にボールを万引きするよう命令した。
「担任のあだ名を覚えているか、お前がつけたんだぜ」
 あだ名をつけて広めたのは彼で、その名が先生にばれたとき、ひどく怒鳴られたのは私の方だった。
「いつ知り合ったんだったか。最初だな。中学に入ってすぐ、入学式の日だ。俺達は席が前後だったんだ」
 彼の方から声をかけられた。私は小声でぼそぼそと応じた。そのとき、彼の表情が変わったことに私は気付いていた。彼は私を遊び道具として使えると判断した。最初からだった。最初からそうだった。
「いつもお前と遊んでやったんだ、俺は」
 彼はいつも自分の友達と一緒にいて、私を莫迦にしては笑う材料にしていた。彼の面倒事は、全て私の方に回された。
 忘れるんだ。私はテーブルの下で拳を強く握り締めた。爪が食い込んで痛いほどだった。
 忘れるんだ。それは過去のことだ。現在はもう何もかもが変わっている。逆に私は、彼を笑ってやることだってできるのだ。かつて私を見下していた彼が、今、私に借金を申し込んでいる状況、その愉快さに、私はもっと有頂天になってもいいくらいなのだ。
 しかし、彼は少しもみじめな様子ではなかった。怯えているのは私だった。
「あなたに……」
 急いで咳払いをしたが、声の震えはごまかせなかっただろう。
「あなたに用立てるお金はありません。交渉なら、あくまで会社同士ということで行いましょう。個人的なお話は終わりにしてください」
 彼は、はっ、と鋭く息を吐いた。
「俺はお前の家を知っている」
 私はいつの間にか下を向いていた。彼は容赦なく、私の目を覗き込んできた。
「手紙は届いているんだな。だったら、俺はお前の住所を知っている。いつでもお前の家に行くことができる。そして、お前には素敵な奥さんがいる。それを忘れるな」
 時間が一気に巻き戻ったようだった。私は気が弱い細身の少年で、彼は強い仲間に囲まれた幸せな中学生だった。
 私は強く目をつぶった。私は叫んでいるのかもしれなかった。しかし声は出なかった。
 そこに、担当者が戻ってきた。茶碗を四つのせた盆を手にしている。次いで、相手方の若い社員も帰ってくる。
 交渉は、茶を傍らにして続いた。結局、一部の書類にのみ印が押され、話し合いは今後も続くことになった。
 私は休憩の後、彼の顔をついに見られなかった。彼がどんな表情をしているかを考えると――彼がもし、かつてのように愉快さに満ちた表情をしていたらと思うと、私は自分がとれるはずだった毅然とした態度を、決してとれない気がした。
 話し合いの終わりに私が安堵したそのとき、彼の声が私の耳を貫いた。
「それじゃあ、また」
 刹那、呼吸が止まった。
 担当者が、会議室から相手方の二人を送りに出たらしかった。ドアを閉めるとき、一瞬妙な間が空いたのは、私が出てくるのを待っていたのだろうか。
 しかし私は、礼儀として彼らを見送ることも忘れていた。一人残された会議室で、私は頭を抱えて冷たい床にうずくまった。
(2007.12.03)

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