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愉快な手紙 〈前〉
The Enjoyable Letters
茶色の封筒を私に手渡しながら、妻は「先週と同じ方?」と尋ねた。私は封筒の裏に書かれた差出人名を確認して、「そうだな」と答えた。
「そう。でも、あなたの知らない方なのでしょう?」
「ああ」
「少し、気味が悪いわね」
「気にすることはないさ」
鞄をソファに置き、上着を脱ぐ。脇のテーブルには、野菜の煮付けや焼き魚といった夕飯が既に用意されていた。
「今、ご飯よそいますから」
妻がしゃもじを水ですすぐのを横目に、私はテーブルにつき、封筒の端を細く破いた。指を入れて便箋をつまみ出す。三つ折にされた白い紙に、手書きの文字がびっしり詰まっているのが、裏に透けて見える。枚数は四、五枚もありそうだ。
「先に、お手紙読まれますか」
「いや、もらおう。お前だって、まだ食べていないんだろう」
引き出した便箋を封筒に戻し、脇に置いておいた。妻が茶碗を並べている間に、手を伸ばして二人分の箸箱を取る。
向かい合って、夕飯を食べ始める。テレビが付いているわけでもなく、会話が弾んでいるわけでもない。しかし、ぽつりぽつりと穏やかに交わされる言葉を、私は心地良いと思った。
しかし、その間も、妻がちらちらと封筒に目をやっている。気付かないふりをするわけにもいかなかった。
「そんなに気になるのか」
妻は一瞬困ったように動きを止めた後、箸を置いて、上目遣いに答えた。
「いえ、これが本当に知らない人から届いた、何か勘違いをしているような手紙ならそれでいいんです。でも、あなた」
封筒は表書きが書いてある方が上になっていたので、妻はそれをひっくり返した。差出人の名前と住所が記してある。
「ここ、あなたの故郷でしょう。もしかしたら、あなたが忘れているだけで、昔の知り合いの方ではないの? もしそうだったら、と思うと心配だわ」
妻と知り合ったのは、私が大学に入るために上京してからのことだ。地元にいたのは、もう四十年近くも前のことになる。
「相変わらず、考え過ぎてるな」
「そうなんでしょうね、ごめんなさい」
「いや。そこまで言うなら、もう一度思い出してみよう」
ここで私は微笑んでみせた。
「しかし、今はとりあえず夕飯を食べればいいんじゃないか」
「そうね。ああ、煮付けが冷たくなっちゃった」
「それはそれでうまいよ」
妻は細かいことを気にし過ぎるところがあった。心労を溜め込んでしまいやすい。余計な不安の種を植え付けたくはなかった。
その後はゆっくり夕飯を食べた。私は意識して、いつもよりよく喋り、笑った。
妻が寝入った後、私は身体を起こして枕元の電灯を点け、さっきの封筒をあらためた。差出人の住所は、確かに実家の近所である。
中の便箋を取り出す。内容を読み進める前に、のたくる文字を見て眉を寄せた。全く読めないほど悪筆というわけではない。しかし、生理的に不快な字ではあった。はねの角度や、はらいの長さといった文字のバランスが、どういうわけかいちいち気に障る。
それでも仕方がない。ボールペンで書かれたらしい文章に目を走らす。
手紙はまず、どうして先週の手紙に返事をくれなかったのか、というところから始まっていた。私のことを懐かしく思っているので、できるだけ早く連絡を取りたい、とある。
そこから、差出人は長い思い出話を始める。差出人と私は中学時代の同級生で、いつも休み時間は一人で本を読んでいた私に、差出人がいつも声をかけていた――という。その週に発売された漫画雑誌の話や、先生達にまつわる嘘か本当かわからない噂話がいつもの話題で、そういう情報に疎かった私は、差出人の話を興味深く聞いていた、という。
しかし、いくら記憶をさかのぼってみても、そんな思い出は私の頭の中にはないのだ。先週、同じ人物から届いた手紙にも、やはりこのような思い出が書かれていた。しかし、その中身にもやはり覚えはない。
差出人は、具体的な漫画の内容や先生の特徴を挙げて、その中学時代の話を語っていた。文章力は感心できたものではないが、描写はいっそ生き生きしていると言って良かった。差出人が、詳細な情報を手紙の中にたっぷりと盛り込んでいることは認めざるを得ない。
差出人があるサッカー漫画を薦めてきて、主人公の新しい必殺技に私と二人して惚れ込んで、放課後、スポーツ用品店に寄り道したことがあっただろうか。粘着質な持ち物検査をすることで有名だった担任に、下品なあだ名をつけて、二人でそれを学年中に広めようとしたことがあっただろうか。
私は、自分なりに律儀に、このような思い出を共有した同級生がいたかどうか考えているのだ。それでも、どうしても思い当たらない。だから妻にも、差出人に心当たりがないと言っている。
五枚あった便箋の内、実に四枚目までが思い出話で黒く埋められている。それだけならいいのだ。妻だって、あれほどこの手紙のことを気にすることはあるまい。
しかし、問題は五枚目だった。
《若い頃の友情に頼って、お願いがある。前の手紙でも書いたが、どうしても金が必要になっている。このままだと、まずいところから金を借りないといけなくなる。どうか相談にのってほしい。ぜひ君の方から連絡をくれ》。相談とあるが、これはそのまま、借金の申し込みだろう。
私は、幸い安定した仕事を長く続けており、金銭的に多少の余裕がないわけではない。実際にこの差出人が、かつて私とかなり親しかった人物であれば、もちろん金額や内容によるが、彼の金銭問題について何かの力になることは不可能ではないだろう。
ただ、差出人の語る思い出に何の記憶もない状態で、それをすることはできない。安直に考えれば、性質の悪い詐欺という風に見るくらいが自然だろう。どれだけ好意的に考えても、私を誰か別の人間と思い違いをした男からの手紙ということになる。
だから、先週の手紙も放っておいた。今日の手紙もそうするつもりだ。この差出人の書く手紙に心当たりが浮かばない限り、まともに考える必要はない。それで十分だと思った。便箋を封筒に戻し、電灯を消して眠った。
仕事が正念場に差し掛かっていた。会社が一丸となって、買収に限りなく近い、大きな契約を結ぼうとしていた。
私の部署も、その事業に深く関わっていた。担当するのは華やかな部分ではない。最も暗いところ、状況によっては辛いところだ。
大きな花を咲かせるために、余分な葉を切り落とすことがある。私が先頭に立って行っているのは、その葉切りだ。スムースな契約のために、問題があると判断された子会社や取引先を切り落としていく。もちろん審査は慎重に行っているが、是正の見込みがないとなれば、容赦なく関係を断ってしまう。
「部長」
私が電話を一本かけたところに、若い社員が近付いてきた。手に書類の束を持っている。コピーを受け取って、確認印を押した。
書類は、契約解除予定企業のリストだった。最初の一枚に企業名が並び、既に交渉が成立しているところにはチェックが入っていた。難航していたところとも、今月に入ってからずいぶん話が進んだ。あと一息で調整が終わるはずだ。
目を休めるように眉根を押さえ、書類をめくる。まだ交渉を続けている企業についての概要がまとめられている。主な争点が箇条書きにされている他、相手方の担当者名も記されている。
一つ一つの項目を入念に確かめていて、ふと、ある名前に目がいった。私は少々驚き、同時に合点がいく思いもした。そのときは、そのまま部内の人間を呼んで、今後の交渉方針について相談を始めた。
(2007.12.03)
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