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躍動するマシュマロ
Hopping Marshmallow

   フィリップ・マーロウ へいにすわった
   フィリップ・マーロウ おしつぶされた(was mashed)
   おうさまのおうまを みんなあつめても
   おうさまのけらいを みんなあつめても
   フィリップ・マーロウ(Mashed Marlowe)を もとにはもどせない

 病室のドアが開いて、入ってきたのはレノックスだった。
「マーロウ! よかったよ、無事で。てっきり、長いお別れ(ロング・グッドバイ)を言わなくてはならないかと思っていた」
 マーロウは軽く手を上げて応じた。しかし彼の様態はひどかった。容態もそうだが、様態がひどい。肉は断たれ、骨は砕かれ、紙のようにぺらぺらになっている。
「大したものだね。『強くなければ生きていけない』と言ったのは、確かに君だけど」
 レノックスは、感心を通り越して呆れたような声を出す。
「まさかぺしゃんこに潰されて(mashed)も、まだ生きているとは思わなかったよ」
「探偵はなかなかしぶといものだ。ホームズだって、滝壺に落ちても死ななかった」
 そう言って、マーロウは枕元の酒瓶に、ひらひらの手を伸ばした。レノックスはそれを押し止めて、「安静中の患者が飲むものじゃないよ。ギムレットには早過ぎる」と言った。
「何にせよ、よかったよ。ところで」
 レノックスは身をかがめて、囁くようにマーロウに言った。
「僕は病院から、君が倒れてきた塀の下敷きになったって聞いたんだけど、それは本当に事故だったのかい?」
 薄紙のようなマーロウは、器用に肩をすくめた。
「匿名の依頼人が僕を呼び出した。その待ち合わせ場所で、こんなことになった。偶然ではないだろう。それに、現場には犯行声明が残されていた」
「もしかすると、あれか。マーダー・グースにやられたのか」
 マーダー・グースというのは、この頃ロサンゼルスに頻出している、愉快犯と思われる殺人鬼の通称だ。現場にマザー・グースの詩のもじりが書かれたカードを残していくことから、その名が付いた。
「どうするんだ。君のことだから、警察に任せるつもりはあるまい? 調査なら手伝うよ。君に出歩かせるわけにはいかないからね」
「心遣いはありがたいが、レノックス」
 深い色の目で、マーロウはレノックスを見据える。
「君は僕を殺しに来たのか」
「何だよ、急に」
 レノックスが戸惑ったようにたじろぐ。しかし、吹けば飛びそうなマーロウは全く揺らがない。
「ミスをしたな。塀に押し潰されたくらいで、僕が使い物にならなくなるとでも思ったのか。確かに身体はぼろぼろだ。しかし、僕の脳細胞は、変わらず躍動しているんだよ」
「どうしたんだ、マーロウ。何が言いたいんだ」
「そうだな、どこから説明するか。君は、僕が潰されたことをmash と表現した。確かに、マーダー・グースのカードにはmashと書いてあった。しかし、僕は塀が倒れてきて下敷きになったんだ。どうだろう、普通はpressを使うものじゃないか?」
「mashで何がおかしい? 僕は、こういうときにmashを使うことに何の違和感もないね」
「つまり君は、犯人と同じ言語センスの持ち主だということだ」
 レノックスは口をつぐんだ。
「僕はごく簡単な罠を張っておいた。病院や、事情を知っている者に、情報統制を敷いたんだ。僕が入院したことは広く知らされたが、それが事故あるいは事件であったこと、しかも命に関わるものだということなどわからなかったはずだ」
「そんなこと、君の様子を見れば一目瞭然だろう!」
 本のしおりのように薄っぺらなマーロウに向かって、レノックスは苛立って喚いた。
「何かに潰されたことまではわかるかもしれない。しかし、そこで塀という言葉が出てくるのが普通とは思えない」
「それは、マーダー・グースが出たと言うから」
「そもそも僕はマーダー・グースという言葉は一度も発していない。犯行声明と言っただけだ」
「最近の事件で犯行声明と言ったら」
「マーダー・グースを想起すると言いたいのか? だったら、塀のことはどう説明する気だい。誰が今回のカードはハンプティ・ダンプティだったと言った?」
 マーロウは一旦口を休め、文字通り薄い唇を舌で湿す。短い沈黙が降りる。
「これだけ穴だらけの説明をしたということは、君は相当焦っていたようだ。僕が生きていたと聞いて焦って駆けつけたのが、理由として考えられる一つ。だがそれだけじゃあるまい? 君はこの場で僕を油断させ、殺すつもりだった。だから多少矛盾したことを言ったところで、構わないと考えたのだろう」
「愉快なお喋りはそこまでだ」
 レノックスは、コルトSAAの銃口をマーロウに突きつけた。
「君は逃げられないよ」
 引き金に指がかかる。ベッド上にへばりつくような姿のマーロウに、避ける術はない。
「僕が君に近付いたのも、評判の探偵である君が、この僕、マーダー・グースを捕らえるほどの実力があるかどうか見極めるためだ。互いにとって不幸なことに、君は僕にとって危険な存在だと判断したよ。マーダー・グースとして、僕は君を排除しなくてはならない」
 滔々と語っていたレノックスは、ふと気付いた。
 マーロウの目は、変わらず穏やかに、まっすぐレノックスを見つめていた。くしゃくしゃに潰れた状態でも、それは変わらなかった。
 レノックスは悟った。自分は決してマーロウに勝てないということを。手から銃が落ちる。マーロウは落ち着いた声で告げた。
「心から残念だ。僕達は、いい友人だと思っていたのだが」
 レノックスのこめかみがひくりと震えた。
「残念? いつも……いつもそうだ。君は必ず僕の上を行く。そうして、何もかもを見透かしたような顔をして……どうして僕と同じ時代に、同じ場所に君が……!」
 激情したレノックスは、拳を振り上げた。銃を失った手に力はなかったが、身動きできないマーロウに致命傷を与えるには十分そうに見えた。
 しかし、レノックスの振り回した腕に、ひらひらのマーロウは吹き飛ばされた。ベッドから浮き、葉が散るように舞い、静かに元の場所に落ちた。それでも、マーロウは表情を変えなかった。
 レノックスは、冷たい床に膝をついた。
「君は……あのとき死ななくてはならなかった。なぜだ、なぜ君は生き残ってしまった……」
「君は僕をハンプティ・ダンプティに例えたね。彼と僕とでは、決定的な違いが一つある。それに君は気付かなかった」
「何だい、それは」
 レノックスは最後の抵抗として虚しく微笑んだ。
「君にとってはあいにくなことに、僕の方は――」
 マーロウは、親しい友人に憐憫の情を込めて言った。
固ゆで卵(ハードボイルド)だったのさ」
(2007.10.24)

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