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少女マトリョーシカ 〈後〉
Girl Matryoshka
*
卒論を提出して、卒業式を控えている半端な時期に、ゼミ室に行った。置きっぱなしだった資料や私物を持ち帰って、ついでに掃除もしておこうと思ったのだ。
ゼミ室には芝園君がいた。部屋に入ってきたわたしに目をやって、嬉しそうに笑う。彼も期限ぎりぎりで卒業研究を出していた。出来栄えの方は、「先生が苦い顔をしていたよ」と本人は言っていたが、彼のことだから要領よくやったのだろう。
芝園君はソファで薄い雑誌を広げていた。わたしがゼミ室の片付けを提案すると、それを閉じて手伝ってくれた。まず、それぞれに自分の荷物をまとめる。芝園君のものは、思った以上に少なかった。図書館から借りっ放しの文献や論文のコピーばかりだ。
「漫画の道具は?」
「まとめて家に持って帰った」
部屋の隅から小さな掃除機を持ってきて、空いたスペースにかけていく。その後を芝園君が雑巾で拭いた。掃除機のモーター音がうなる中で、芝園君が声を張った。
「加藤君はどうしたの」
「え、何?」
わたしは大体聞こえていたが、返事を考える時間を稼ぐために聞き返した。
「加藤君っていったよね。あの人、最近見ないけど、どうしたの?」
「就職決めて、もう研修に行ってるって」
床に落ちている髪の毛がなかなか吸い取れない。同じ場所で掃除機のヘッドを往復させる。
「どこで?」
「彼の地元」
「東京の人じゃないんだ」
「そう」
掃除機を一段階強くする。モーター音が耳を震わせる。
「じゃあ、離れちゃうんだね」
「そうなるみたい」
二人とも、叫ぶようにして言葉を交わした。それから同時に笑い出した。笑い声が自然に出てきた。
「ねえ、わたし、芝園君の就職のこと聞いてないよ」
「うん?」
芝園君は、部屋の角に雑巾の端を何とか押し込もうとしていた。聞き返し方がどことなくわざとらしい。きっと、返事の仕方を考えているのだ。わたしは掃除機のスイッチを元の《弱》に合わせた。
「卒業したらどこに行くの」
「ネパール」
「何それ」
「本当だよ。ネパールに行くんだ」
指先に雑巾を巻いて部屋の縁をなぞる。そのまま、芝園君は顔を上げた。それは彼が漫画を描いているときと同じ表情だったから、わたしはネパールが冗談でないとわかった。
「ネパールで何をするの」
「絵を」
それで画材道具が既に引き払われていたのだ。
「ネパールは、絵の世界で優れているの?」
「題材の問題だよ」
「出発はいつ」
「明日」
「卒業式は」
「出ないよ。ちょっと残念だけど」
床に掃除機をかけ終えた。芝園君の雑巾がけは、細かいところにこだわっているせいで進んでいない。わたしは掃除機を片付けて、ロッカーからもう一枚雑巾を取り出した。比較的きれいな雑巾だったので、棚から順に拭いていくことにした。
「寂しくなるね」
掃除機の音がしないので、まるで本当に寂しい気がした。
「寂しいねぇ」
芝園君はどこか愉快そうに応じ、その口調のままで続けた。
「恋愛するって難しいんだねぇ」
思わず噴き出してしまった。
「芝園君には俗過ぎない?」
「そうかな」
「超現実はどうしたの」
「現実を超えているから、わからないんじゃないか」
本棚の埃を、床に落とさないよう拭き取っていく。雑巾が黒くなっていく。
「漫画は描くの、芝園君」
「たぶんずっと描くよ」
「素敵」
「いいでしょ」
「ネパールから帰ってきたら、今度こそ読ませて」
「もう帰ってこないかも」
「その方が似合いそうだわ」
「読みたかったら、それを読んでいいよ」
「え?」
わたしは棚を拭く手を止めた。芝園君は、さっきから床の同じところばかりを磨いている。
「テーブルの上に、雑誌があるから、読んでみて」
さっき、芝園君が見ていたものだ。雑巾をバケツに放り込み、わたしは雑誌を取り上げてめくってみた。
中ほどのページに、見覚えのあるタッチの漫画が掲載されていた。
《芸術新人賞漫画部門入選作》という惹き句がついている。
「――おめでとう」
「ありがとう」
「これ、秋頃に描いていたものでしょう」
表紙の女の子に見覚えがあった。大きな目をした女の子。
「そうだよ」
「《少女マトリョーシカ》」
「それがタイトル。マトリョーシカって、知ってる?」
「うん」
おざなりに返事をして、わたしはページをめくった。
小さな女の子が普通の生活をしている様子が、ミシン糸のように細いペン先で、偏執的なまでに書き込まれている。情報量の多さに、頭がくらりとした。
日常と些細な出来事を積み重ねていったあるとき、女の子の前に、その子と寸分違わぬ容姿で、しかし体つきが全体的に大きな、第二の女の子が現れた。大きな方の女の子の胴体が、何の前触れもなくぱっくりと二つに開き、目の前の女の子を一瞬にして呑み込んでしまった。その日から、女の子は一回り大きくなった。
物語の中で女の子は、同じ姿をした大きな女の子に呑まれながら、、だんだんと大きくなった。あるとき女の子が周りを見回すと、自分は大人達と同じ大きさになっていて――。
雑誌を閉じて、わたしは息をついた。芝園君が、反応を見るようにわたしの顔をうかがう。子供のように柔らかな表情だ。
わたしは一言だけ感想を告げた。
「この女の子の顔、わたしに似ている気がする」
芝園君は笑みを揺るがすことなく、「僕もそう思うよ」と答えた。
*
「大体片付いたし、今日はこんなものでいいんじゃないかな」
彼がそう言って、その日の整理は終わった。窓の外はもう暗くなっている。わたしは開けっ放しのカーテンを閉めた。
「後は、旅行から帰ってきてからにしよう」
「もう八時を過ぎているのね」
棚の上の時計に目をやる。自然と、その隣のマトリョーシカ人形も視界に入った。
開かないマトリョーシカ。貯金箱。中は空っぽ。
「このマトリョーシカの、中の人形達は?」
わたしの視線に気付いたのだろう、彼が問いかけてきた。
「さあ、忘れちゃった。捨てたんじゃないかな」
「ええっ、もったいない」
「だって、そんなの残しておいたって仕方ないじゃない」
「でもなぁ」
彼が眉を下げて惜しがるので、わたしは何だかおかしくなった。
「この貯金箱だって、わたしは持ってくるつもりなんてなかったのに、母が勝手に荷作りしてしまったのよ。それこそ、捨てちゃうのも忍びないでしょう」
「うん、うん。これは、貯金箱としては使っていないの?」
「使ってないわよ。お金を入れたら、もう出せなくなるしね。さっき棚に置いたときも、軽かったよ」
彼は、棚の上のマトリョーシカに手を伸ばして、それを振ってみた。
「あれ、これ、何か入ってない?」
えっ、と声をあげてしまった。彼はわざわざ人形をわたしの耳元に持ってきて、上下に振ってみせた。
確かに、カラカラと乾いた音がする。
「きっと君が忘れているんだよ。昔に一回だけでも、お金入れたんじゃない? 十円玉一枚とかさ」
カメラのフラッシュが光るように、記憶が蘇った。情景は何もない、自分の頭の中にあった思考だけの記憶だ。あれはいつのことだっただろう。
ひどく小さなときだったような感覚がある。
それと同時に、ごくごく最近のことだったようにも思える。
彼は、マトリョーシカの中にあるらしい硬貨の金額を見極めようと、人形を逆さまにしてお金を入れる口を覗き込んでいる。うまくいかないのだろう、首を上に傾げて、必死に中の様子を探っている。わたしはそれを、どんな顔で見つめていただろう。
わたしは彼に、外で夕飯を食べようと声をかけた。彼は「いいね」と言って、マトリョーシカを元の棚に戻す。出かける準備を整えながら、わたしは今から彼にどんな話をしようかと考え出していた。
※第24回織田作之助賞第1次予選通過(2007.08.31)
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