Home > 小説 > 少女マトリョーシカ
少女マトリョーシカ 〈前〉
Girl Matryoshka

「あれ、マトリョーシカ人形だ」
 荷物を全部出してしまったダンボール箱を次々畳んでいく。大した量ではないと思っていたのに、終わってみるとかなりの重労働だった。肩が痛い。ダンボールが小山になる。
「あの棚の上の。君が置いたの?」
「ええ」
 背の高さほどある本棚の上に、プラスチック製の安っぽい置き時計と、観光地の名前が入った木彫りの虎、そしてマトリョーシカを並べておいた。時計と虎は彼のもの、マトリョーシカはわたしのものだ。
「すごい取り合わせだなぁ。君、ロシアに行ったことがあるの」
「ううん。昔、親が誰かからお土産にもらったものだったはず」
「へえ」
 畳んだダンボールを束ねる作業に飽きてきたのか、彼はわざわざ立ち上がって、棚の上のマトリョーシカに手を伸ばした。
「あ、でも、それ開かないのよ」
「ええっ。中に一回り小さい人形が入っていて、またその中に……ってなっているんじゃないの」
「はじめはそうだったんだけど」
 彼の代わりに、残ったダンボールをガムテープで縛っていく。削れたような紙屑が、敷いたばかりのカーペットに散っている。後で掃除をしなくてはならない。
「小学校の、一年生かな、二年生かな、夏休みの宿題で、貯金箱を作らないといけなかったの」
「ああ、俺もそういうのあったなぁ」
「それで、何でかわからないんだけど、わたし、その宿題をすっかり忘れていて」
「ありゃりゃ」
「始業式前日に、次の日持っていくものの確認をしていて、さっと青ざめたわよ。どうしよう、どうしようって。そのときに、飾ってあったマトリョーシカが目に入ったの。中の人形を出してしまえば、一番外側の人形は空っぽになるでしょう。だから、頭のところにお金を入れる穴を空けて、中は空にして、継ぎ目を接着剤で留めて、はい、これで貯金箱のできあがり。穴を空けるのだけは大変だったけど、ものの三十分じゃなかったかしら」
 ちょっと喋りすぎたかな、と思った。何となく後ろめたさを感じる。彼が知らない頃の話を、そうそうするものではないだろう。
 彼は、マトリョーシカを手に取って、頭の穴をあらためた。それからわたしの方を向いて、「それはうまいアイディアだったね」とにっこり笑んだ。

     *

 大学のゼミ室に入ると、先客がいた。わたしは図書館で借りてきた本を鞄いっぱいに詰め込んできたのだが、彼は全く関係のないことに懸命で、額からは汗まで流していた。
「芝園君」 
「ちょっと待って」
 いつものことなので、わたしは重たい鞄を椅子におろして、大学ノートを広げた。今日は、卒論の進捗状況を教授に報告しなくてはならない。時間はまだあるが、間に講義が挟まるので余裕はない。空いたページに発表のプロットをメモしていく。
 一方、芝園君は机に紙を置き、右手にペンを持ったままうんうん唸っている。時折「よし」と声に出しては、鼻を紙に押し付けんばかりにしてペンを走らす。そんなにすごい近眼なら、眼鏡をかければいいのに、と言ってみたことがある。すると、「これがぼくの創作姿勢だから」と言う。おじぎをしているみたいで、ずいぶん腰の低そうな創作姿勢だ。
 三〇分ほど互いに沈黙してそれぞれの作業を進めた。わたしの鉛筆が滑る音と、芝園君のペンが机を叩く音が入り交じる。芝園君が先に長く息をついて、背伸びをした。
「終わった?」
「今はこれ以上無理」
 わたしは芝園君の手元にある紙を覗き込もうとした。神経質に整理されたコマ割り。細いペン先で書き込まれた人物。漫画だ。もちろん、これが国文学ゼミの卒論になるはずがない。しかし、芝園君が本を読んでいるところはあまり見ないし、漫画を書いているところならいつでも見られる。
 そこに書かれたストーリーを把握する前に、芝園君の手が紙面を覆った。
「完成するまで見たら駄目」
「だって、完成したのを見たことがないよ。大きな目の女の子がいたね」
「内緒、内緒」
「またシュール?」
「シュールって言わないでくれるかな」
 手で原稿を隠したまま、芝園君は口をとがらせる。
「シュールって言葉の意味は、ちょっと雑になり過ぎたと思うよ」
「じゃあ、超現実?」
「その方がまし。でも、超、で切ったら駄目だからね。そうだ、さっき彼氏が来たよ」
 突然言われたので、一瞬意味が分からなかった。
「加藤君、ここに来たの」
「そうか、加藤君っていうんだっけ。前に教えてもらったよね。うちの学部だっけ」
「ううん、経済。何か言ってた?」
「三時頃、もう一回来るってさ」
「わかった。ありがとう」
 芝園君は、インクが乾いたか確かめてから、原稿を重ねた。わたしのプロットを書く手は止まってしまっていた。芝園君が言った。
「加藤君と結婚するつもり?」
「何、いきなり」
 唐突な話の流れは芝園君といるとしょっちゅうだ。
「そういうこと、この場で言うのは危なくない?」
「どうして」
 聞き返されて、かえって自分の方が危ないことを言ってしまったと思い至った。ゼミ室に二人でいて、目を見合う。自分の言葉をなかったものとして、「いいの、どういうこと?」と芝園君を促した。
「僕は、そういう特別に親しい女の子がいたことってないんだけど、やっぱりそういうときって、将来結婚することを意識しているのかな、って思ってさ。僕だったら、そうでないとたぶんうまく付き合えないよ」
 わたしは意識的に首をかしげた。そうして物事の道理をよく知らない人間であるように見せようとした。うまくいったかはわからないし、芝園君がそれを読み取るような人かもわからない。
「わたしも、そう思っていたな」
 芝園君はどこか嬉しそうに「だよね」と言った。
 だけど加藤君はこの前、「それはまた別の問題だろう」と言った。
 コンコンと数十分振りにゼミ室のドアがノックされ、開いた。顔を覗かせたのは加藤君だった。ちょうど午後三時になるところだった。
「失礼します、ああ」
 加藤君はわたしがいることを認めて歯をこぼした。
「今、大丈夫? ちょっと外に出たいんだ」
「外に?」
「そう、しばらくでいいから」
 奥にいる芝園君に向かって、加藤君が会釈する。
「どうも、おじゃましました」
「いいええ」
 のんびりと笑った芝園君に、「じゃあ、荷物置いていくから、よろしくね」と言い置いて、わたしは加藤君と廊下に出た。
 ドアを閉める。中で芝園君と話していたことは、加藤君に聞こえただろうか。ドアの向こうは静かだが、いるのは芝園君一人なのだから、声が聞こえるはずもない。
「いきなり悪いな」
「どうしたの」
「おもしろいことがあるんだ」
 加藤君は、スポーツブランドのロゴが入った鞄から、縄跳び紐を取り出した。小学生が使うような、ビニール製で緑色のものだ。
「教育学部が使うみたいで、生協に売ってたんだ。久しぶりにやりたくなって」
「いいの、関係ないのに買っちゃって」
「一本くらい平気だろう」
 人通りのないところということで、校舎と校舎の間にある中庭に行った。中央に花壇があり、脇のベンチでお菓子を食べている人がいた。縄跳びを握った加藤君は、空いているスペースに向かっていった。わたしも速足で追う。
「ここならいいか」
 加藤君はいそいそと結んであった縄をほどいた。一浪している彼の方がわたしより年上だが、こんなときは幼い男の子を見るような気持ちになる。
 加藤君はさっそく、軽やかに二重跳びをしてみせた。わたしは一番近いベンチに座って拍手をした。
「うまいね」
「久し振りだけど、結構跳べるものだな」
 普通の前回し跳びに切り替えて、息の合間に返事をしてくれる。
「替わるか?」
「ううん」
「やってみろよ」
「いいの」
 加藤君は縄跳びを上手に跳ぶ。得意げに跳ぶ。そんな彼を見ていると幸せな気持ちになる。ただ、わたしは縄跳びが特別好きではなかった。
「縄跳び大会って、あったでしょう。二人一組になって、相手の跳んだ回数を数えるの。わたしとペアになった子がかなり上手で、前跳びなんだけど、とんとんとんとん、すごい速さで跳ぶの。そうしたら、いくつまで数えたかわからなくなっちゃったの」
 加藤君は跳び続けている。あやとびから、はやぶさに入った。縄が目まぐるしく交差する。
「それでどうした」
「跳び終わったその子に、何回跳んだかわからなかった、って言った。そうしたら、こう唇をとがらせて、大体でいいからいくつよ、って聞かれた」
 ぱしっと鋭い音を立てて、縄が加藤君の足に当たった。加藤君は跳ぶのをやめた。痛がる様子はない。わたしには、わざと足にぶつけたように見えた。
「たぶん、八……今はもちろん正確には覚えてないけど、確か、八七回か八八回、って答えたんだと思う。その子は、じゃあ八八回でいいねって、記録用紙に書き込もうとした。わたしは、でも八六回だったかもしれないし、って慌てて言い足した。その子は怒ったような口調で、じゃあそうすればいいんでしょって言って、用紙に八六回って書いてしまった」
「それはそうだろう」
 急に加藤君は背中を向けてしまった。加藤君の声には、心なしかとげが立っているようだった。
「そんなの、俺だって腹が立つ」
「ちゃんと数えられなかったのは、本当に悪かったと思う。でも、間違っていたらいけないし」
「適当に答えておけばいいんじゃないか。正しい回数なんて、他の誰も数えていないんだろう」
 わたしは何も言えなかった。加藤君の言うことに間違いがないことは知っていた。学んでいた。
加藤君はねじれてしまった縄を直しにかかった。縄の端から端へと手が滑っていく。加藤君の手の間で、縄がぴんと伸びる。
「お前は、いつもそんな風に、昔の話ばかりするんだな」
 おそらく加藤君に悪気はなくて、ただわたしの耳にその言葉は引っかかった。彼はまた、前回し跳びを始めた。

     *

 ウサコ、ウサコ。
 裕子ちゃんが、へんな顔してわたしを見たよ。
 おかしな話、おかしな話だね。
 だって裕子ちゃん、あそびに来るんだもん。
 約束していないのに、来るんだもん。
 だめだったのに、今日はだめだったのに。
 十個の漢字を二十回ずつ書かないといけなかった。
 わたしは書くのがおそいから。
 それに、夜はおばあちゃんが来て、いっしょにご飯を食べにいくから。
 だからあそべないって、それだけなのに。
 宿題しないといけないからあそべない、ってどこか悪いのかな。
 どうして裕子ちゃんは、あんなにへんな顔をしたんだろう。
 おかしな話。
 おかしくないのかな。
 わたしがおかしいのかな。
 ウサコ、ウサコ。
 どう思う?

     *

 ポケットに十円玉が入っている。
 拾ったものだ。しかし、こんなものは拾わなければ良かった。
 警察に届けようとすると、その必要はないと言われる。届けた方が迷惑だとすら言われる。
 落とした人は困っていないのか。これはなけなしの十円ではなかったのか。
 何より、この十円玉を拾った私はどうすればいいのか。
 ポケットの中には、まだ十円玉が入っている。気に病むことになるのなら、こんなものはやはり拾わなければ良かったのだ。これを、一体どこにやればいいのだろう。

     *

 ウサコ、ウサコ。
 ずっと先生におこられていたよ。
 算数のテストが終わって、かえりの会をやって、それからずっと、先生に怒られていたよ。
 裕子ちゃんが言ったの。
 裕子ちゃんが、わたしが裕子ちゃんのテストを見たって言ったの。
 裕子ちゃんはまず、わたしに言った。
 テストが終わってすぐ、裕子ちゃんは友だちのところに行った。
 友だちと話しながらわたしの方をちらちら見るので、わたしはふしぎだった。
 裕子ちゃんは、二人の友だちをつれて、わたしの席の前に立った。
 すわっているわたしを見おろして、カンニングしたでしょう、って言った。
 わたしは首をふって、ちがう、と答えた。だから、裕子ちゃんは先生のところに行った。
 三人が口をそろえて話をしたから、先生は放課後、わたしを呼びだした。
 先生と二人になって、問いつめられて、だからわたしは裕子ちゃんのテストを見ましたと答えた。
 ――ウサコ。
 本当は、裕子ちゃんのテストなんて見ていないの。
 カンニングしていないんだよ、わたし。
 でもね、そのくらいのことはしておいたほうが、なんだか都合がいいみたい。
 今日のかえりは、裕子ちゃんといっしょだったの。
 裕子ちゃんは、わらっていたよ。
 わたしも、わらったよ。
 おかしな話。だけど、きっと、そういうものなんだね。
 
(2007.08.31)

<<<          >>>

Home > 小説 > 少女マトリョーシカ
Copyright (C)2008 Nathalie, my sweet darling. All rights reserved.
広告 [PR] 再就職支援 わけあり商品 冷え対策 無料レンタルサーバー ブログ blog