Home > 小説 > 子供のいる風景
子供のいる風景 〈後〉
Scenery in which a child is

     6

 三人の中学生は、それぞれ違うケースを持っていた。一人はトランクを小さくしたような四角いケースを、一人はそれよりも一回り細長いケースを、そしてもう一人は、どうにも説明しにくい、大型で変形したカタツムリに似たケースを重たそうに運んでいた。
 それぞれ、トランペット、トロンボーン、ホルンである。
「暑いよー、重いよー」
「もうちょっと」
「電車、座れるかなぁ」
 皆、首にタオルをくるりと巻いている。タオルの先は、真っ白なブラウスの首元に押し込まれている。
 駅前を通りかかったとき、彼女たちは子供の泣き声を聞いた。
「あ、泣いてる」
「本当だ」
 トランペットを持った少女は、足を速めて子供のもとに寄った。サックスの少女も続く。ホルンの少女だけが、ためらいながら後に続いた。
 トランペットの少女は、ケースを傍らに置いて屈み込んだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
 下から覗き込むように、トランペットは子供に話しかける。しかし、子供は顔を手でめちゃめちゃにこすりながら、間断なく嗚咽をあげている。
「バスに乗れなかったの? 大丈夫だよ、大丈夫」
 サックスも、トランペットの隣に屈んだ。子供の両肩に手を置いて、心配そうな声音で話しかける。
 ホルンは、二人の後ろに立って、自分もしゃがむべきか悩んでいた。周りを気にして、うつむき加減に視線だけをさまよわせた。実際、通り過ぎる人々は彼女たちに目をやっていた。
「ほらほら、心配ないよー」
「お母さんいないのかな?」
 ホルンは思い切って二人に言う。
「もうすぐ、電車来ちゃうよ」
「えー、まだ大丈夫だよ。ちょっと早めに来たんだから。二、三分くらい余裕ある」
 意に介さず、トランペットは子供にむかって笑いかけた。
「ほら、泣かないでねー。一人で来たの? 偉いねー」
「格好良い帽子だね。誰に買ってもらったの?」
 ホルンは、何だか腹が立ってきた。ホルンは再び二人に言った。
「スカート」
「え?」
「しゃがんでいると、スカート、中、見えちゃうよ」
 トランペットは、不満げに眉を寄せてホルンを見た。ホルンはその表情に狼狽した。
「ねえ。そういうの気にしなくていいって。普通にしてたら見えないんだから。そんなことより、この子のこと、心配にならないの」
 怒りを含んだ声で、トランペットは言った。
 ホルンは反論した。電車に乗り遅れたら、部活に遅刻をして、他の部員に迷惑をかけることになる。県大会は来週に迫っていた。楽器ケースを地面に置くのも、普段から注意されていることだが、二人ともそれをしていた。これらのことを、ホルンはかすれた声で何とか告げた。
「そんなこと、どうでもいいよ」
 トランペットは、あっさりと言った。
「それより、今はこの子の方が大切でしょう」
 サックスも、ホルンを見上げた。二人の表情にかすかな、おそらく本人たちも気付いていない侮蔑があることに気付き、ホルンは頬を紅潮させた。二人はまた子供の方を向いた。
「ごめんねー。元気出してねー」
「お姉ちゃんたち、もう行かなきゃいけないけど、大丈夫だよね」
「強い子だもんね、一人で頑張れるよね」
 二人の言葉一つ一つが、ホルンを刺激した。自分をひどい人間のように感じ、しかし自分にそう思わせた二人の友を、ほんの短い間、気に入らない、と思った。そしてそう思った自分をまた最低な人間であるように思い、ホルンの考えは堂々巡りに入る寸前だった。
 子供は、それでも何とか、少しずつ息を整え始めた。それを見て、二人は名残惜しそうに立ち上がった。
「それじゃあね、ばいばい」
「元気でねー」
 二人はまだ名残惜しそうに子供を見た。子供の後ろにも視線をやっていた。
 まだしゃくりあげている子供を残し、三人は駅の中に入っていった。途中でホルンが一度振り返ったが、バス停に並んでいる人と目が合っただけで、子供は顔を上げなかった。

     7

 青年は全てを遮断したかった。周囲にいる人々の冷たい視線、これから自分の向かう場所、そして目の前で泣いている子供。何もかもが青年を憂鬱にさせ、苛立たせた。
 彼はずっと感じていた。「お前がその子を泣きやませろ」という、周りの声ならぬ声を。その複数の声は、目で、表情で、青年を追い詰めた。青年は、泣き続ける子供の後ろにずっと立っていたからだ。
 青年もまた、バスに乗り遅れたのである。
 しかし彼は、元々バスに乗ることをためらっていた。大学で所属しているゼミの合宿に向かうところで、このバス停が集合場所だった。青年は学業には熱心であったが、ゼミの中の人間関係には極めて不器用だった。また、強烈な個性を発する教授は、青年の胃に一度穴を開けていた。
 だから青年は、あえて集合時刻ぎりぎりに家を出たし、歩みもやや緩慢にするよう心がけた。駅手前の信号に引っかかり、本当にバスに間に合わなくなる可能性が出てきたとき、青年は淡々と安堵した。
 ところが、信号待ちをする青年の隣には、子供がいた。リュックサックを担いだ子供は、足を震わせていた。青年はその不審な動きを見て気付いた。足踏みをしているらしい。焦っているのだ。これで、青年はこの子供も同じバスを目指していることに思い至った。
 駅前のスクランブル交差点で、歩行者の信号待ちは長い。青年は信号が赤を示し続ける間落ち着いていられたが、子供の足踏みは次第に細かく、速くなる。青年はそれを目障りに思った。
 信号が青に変わった途端、子供は駆け出した。青年はゆっくりと足を踏み出す。長く広い横断歩道の真ん中で、子供が転んだ。すぐ横を自転車が慌てたように避けていく。子供は、青年が無意識に予想していたより早く起き上がり、すぐさま駅のロータリーに入っていった。
 バスのドアが閉まるブザーがかすかに聞こえた。このままだと、おそらく自分はバスに間に合わないだろう。あの子供はどうなるか知らない。青年は腕時計とバスを見比べながらそう考えた。内心、安堵のため息をついていた。
 青年がはっとしたのは、子供がバスを呼び止める声をあげたからだった。泣き声混じりに、何度も何度もバスを呼んでいる。
 ――待つな。
 青年は一瞬に強く祈った。
 ――さっさと行け。
 バスは動き出していた。子供はまだ叫んでいる。クラクションが鳴った。
 ――何も聞くな。何も聞くな。進め。早く出てしまえ。
 不思議なほどに、バスは子供の声を無視した。青年の念が、バスを押し出したようだった。そしてもう、子供をかき消すようなエンジン音と共にバスは駅前ロータリーを出ていった。
 青年は悠々とロータリーを歩いてきた。子供の泣き声は聞こえていたが、特に気にしていなかった。それより、自分がこの後どうすればいいのかを考える方が彼にとって重要だった。単純に雲隠れするわけにもいかない。しかし、バスに乗り遅れたことが、彼の背中を押す要素になるのは間違いなかった。大袈裟に言うなら、運命が彼をバスに乗らせなかったのだと、青年は思ったのだ。青年は、ゼミをやめることとその言い訳を早くも考え出していた。
 そして青年はバス停までやって来た。子供が泣いていることには構わず、その後ろに並んだ。そして、次のバスで目的地に向かうかどうか考え出した。少し冷静になると、青年は先に向かった方が得策であるように思い始めた。時間を引き延ばせば、心証が悪くなるばかりだろう。電話やメールでの連絡は、教授が好まない。結局は呼び出されて、より気まずい思いをすることになるだろう。それなら、一時にけりをつけてしまいたい。
 そこまで思案したところで、青年は初めて周りの様子に気が付いた。そして、戦慄した。
 周囲が、青年を責めていた。
 声に出して青年を罵るようなものではない。しかし、青年は気付いた。青年を動かそうとする意思が、いつの間にか辺りに渦巻いていた。
 原因は、青年の前で泣き続けている子供だった。
 子供は、疲れる様子も見せずに泣き続けていた。それは、見ようによっては助けを求めているようでもあった。自分は何もしないが、子供のそばにいる青年には慰めてもらいたい。そんな人々の思いが連なって、青年を襲った。
 それに気付いてからは、青年は針の筵に立っているようなものだった。高校生がからかうように笑っていく。目を合わせないように女が通り過ぎていく。あらゆる通行人が、子供に何らかの関心を示し、次いで青年にちらりと目をやっていった。
 段々と、青年は耐え難くなっていった。この場を離れてしまおうかとも思った。しかし、今さら子供のそばを離れたところで、自分への非難が強まるばかりだという予感もあった。この予感は、非常に恐ろしいものだった。青年は逃げ場を自ら塞いでしまったのだ。
 この子供。青年はじっと子供の後頭部をにらみつけた。キャップの赤色が、青年の怒りをますますかきたてる。ぐっしょりと濡れて小さな背中に張り付いたTシャツも同様だった。この汚らしい、やかましい、くだらない――。
 そのとき、中学生が三人寄ってきて、その中の二人が子供に話しかけだした。子供の泣き声もさることなから、中学生たちの甲高い、甘い物言いが、青年の癇に障った。蒸すような暑さが、さらに青年をかっとさせた。
 子供。泣き叫ぶ子供。恐らくその理由はもう近くにないだろうに、泣き続ける迷惑な子供。それがなぜ、ここまで見知らぬ人間の同情を集めるのだろう。
 それは――子供が、自らの過去の姿だから?
 とにかく、本来あるべき不快さを麻痺させる要因が、この子供にあるのは明らかだった。青年は、それを持っている子供が憎かった。自分がいくら努力しても与えられなかったいたわりや励ましを、幼くて、泣いているという理由だけで得られる子供が、許しがたかった。
 中学生たちが去っていく。子供との別れを残念がるように、最後までねっとりと絡みつくような言葉をかけていった。理性で抑えなければ、青年は中学生に向かって怒鳴っていたかもしれない。
 まだ完全には泣きやまない子供から目をそらす意味も含めて、青年は中学生たちの方を振り返って見た。すると、ちょうど中学生たちの内の一人も振り向いたところだった。
 青年と彼女の目が合った。それを見たとき、青年はその中学生が、自分と似た気持ちでいることを直感した。
 このことが青年の心理にもたらした影響は、微妙なものだった。自分の考えが道理に合っていることを証された気もしたし、かえって否定された気もした。その間に挟まれ、青年はくらりとするほど静かに興奮した。頭そのものが巨大な鈴になったように、わんわんと揺れた。子供の泣き声に共鳴するようだった。目の前が真っ暗になった。
 青年は、子供を殴ろうとした。
 心の中では、もう殴っていた。しかし、そのとき、青年の後ろに一人の老婦人がやってきて、小声でこう言ったのだ。
「もうすぐ、次のバスが来ますよ」
 それはもちろん、青年ではなく、その前にいる子供にかけられた言葉だった。しかし、青年は催眠を解かれたように我に返った。目の前では子供が未練を断ち切れないように泣いていた。
 青年は、すっかりこわばってしまった頭で、これから自分を待っているものと、子供のこの先を比較した。そこには何の結論も出なかった。
 そして青年は、全く穏やかに、一筋の涙を流した。それは、正真正銘、誰にも見られることはなかった。

     8

 子供は、ひっくひっくとしゃっくりを続けていた。後ろから声をかけられても、それは変わらなかった。
 彼は自分の理由で泣いていた。周囲の意思が意味を持たない、自分の世界で泣いていた。有形無形の咎めも、慰めも、仮に当人の思いを表せたとしても、子供には何も伝えなかった。
 だから子供は泣き止まなかった。いつまでも、悲しみの余韻を引きずっていた。彼にとって、その辛さは圧倒的なものだったのだ。
 そのとき、ロータリーの向こうから、信号を通り抜けて、バスが走ってきた。太陽の光が窓ガラスにまぶしく反射する。
 子供はもう一度しゃくりあげた。そして、《COOL!》というロゴのキャップを、深くかぶり直す。バスは子供のちょうど目の前に、まるでエンドマークのように、ゆっくりと停止した。
(2005.10.01)

<<<          >>>

Home > 小説 > 子供のいる風景
Copyright (C)2007 Nathalie, my sweet darling. All rights reserved.
広告 [PR] 再就職支援 わけあり商品 冷え対策 無料レンタルサーバー ブログ blog