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子供のいる風景 〈前〉
Scenery in which a child is
1
夏の真ん中で、暑かった。そして、太陽が最も的確に地上を捉える時間だった。
駅前で、一台の市営バスが出発を待っている。白地に青い線の入った車体は、ところどころが引っかき傷のように錆びついている。バスの中に人は少ない。運転手の他には、学生らしい男女が四人ほど固まっているのと、一人で座っている客が二、三人いるだけだ。駅前の人通りも、さして多くない。
唇を震わせるようなブザーが鳴り、バスのドアが閉まった。低いエンジン音と共に、バスがゆっくりと動き出す。
「待って!」
突然、甲高い声が響いた。駅前にいた人々は、一瞬その声の元に注目した。
男の子が一人、ロータリーを走ってくる。幼い身体にはやや大き過ぎるリュックサックを背負い、赤いキャップをかぶっている。
「待ってぇ」
悲鳴のような叫びの語尾には泣き声が混じっている。ロータリーの車道に飛び出して、クラクションが鳴らされた。それでも子供はバスを目指して、手足を振り回しながら必死に走ってくる。
しかし、一度動き出したバスは、止まる気配を見せず、するりと駅を出て行ってしまった。
「待ってーっ」
ようやくバス停に辿り着いた子供は、力をふりしぼって、咽喉を嗄らして、走り去るバスに向かって声を上げた。
もちろん、バスが戻ってくることはない。
子供は泣き出した。顔中を涙で濡らしながら、バスを呼んでいたときよりもさらに高く泣き喚いた。目や鼻や口は、配置を間違えたようにぐしゃぐしゃになった。水色のTシャツにも、《COOL!》という文字の入ったキャップにも、汗でぐっしょりと染みができている。どこかで転んだのか、すりむけた膝に血がにじんでいた。
唸るほど蒸し暑い夏の駅前に、子供の泣き声がこだまする。
2
「ちょっと、ひどくね?」
「ひでえ、ひでえ」
男子高校生が二人、笑いながら言い合っている。
「止まってやればいいのに」
「待ってって言ってんだからさ」
「あれはひでえよな、泣いてんじゃん」
《駐輪禁止》の看板の前に止めておいた自転車の鍵を解除しながら、二人は楽しげに喋り続ける。一人の肘が隣に止めてある自転車に触れ、連なって三台ほどが派手な音を立てて倒れたが、そのまま自分の自転車を列から引き出そうとしている。
「早くしろよ」
自転車をこぎ出す準備のできた一人は、もう一人を促す。
「待てって」
手間取っていた正念も、ようやく自転車を出した。それから、倒してしまった三台の自転車を、まとめて雑に立てた。ハンドルは絡み合い、一台のカゴは斜めに歪んでいた。
「まだ泣いてんの」
泣いている子供のいるバス停は、二人からほんの三メートルほどのところにあった。ほとんど、目の前で直視しているようなものである。
「あー、かわいそー」
「かわいそー」
笑い声を含みながら、二人は言い合う。冴えない担任の噂話をするように、軽やかな口調だ。
「ほんと、いつまで泣いてんだろ。かわいそー」
「あの運転手、ひでえよなぁ」
「最悪だよ」
「よくあんな子置いていけるよな。人間じゃねえって」
「後ろにいる奴もさ、何か言ってやればいいのに」
「なあ」
二人はいかにも気持ち良さそうに笑った。その五歩先では、子供がどうしようもなく泣いている。
「お前もさぁ、気を付けろよ」
「何がだよ」
二人は自転車にまたがった。
「うっかりしてると、あんな大人になっちゃうぜ」
「うわ、最悪」
「やだよなー」
「ひでえよなぁ」
言葉の意味を超越したところで、二人は笑い続ける。横を通り過ぎる人々や、すぐそばで泣き叫んでいる存在を、感じているのかいないのか、それすらも定かではない。
底の抜けた愉快さに溺れた少年たちは、自転車を駆って駅を離れていった。
3
若い女は、「至急、先方の総務に書類を渡すように」と命じられていた。大き目の鞄に、A四サイズの封筒が入っている。女は自分が過去にしてきた失敗を心得ていたので、ほとんど抱き締めるようにして鞄を運んだ。
駅から出たとき、熱気を肌に感じると共に、女は子供の泣き声を聞いた。
――人がいる。
咄嗟に思ったのは、そのことだった。
――人目がある。だから、私は何もできない。
女は、この式を立証するものを探した。探そうという思いもなく探していた。子供のそばで、大きな声をあげている高校生たちを目にする。
――ここで子供に構えば、私も何かを言われるかもしれない。だから、私は何もできない。
良心が、あるいは小学生のときに習ったような道徳が、女の袖を引いた。目が子供に吸い付いて離れず、口は何らかの言葉を発しようとしていた。
――余計なことをしたら、周りに笑われるかもしれない。あの子供も、助けを必要としていないかもしれない。
女はぎゅっと鞄を持ち直した。自分の行動を正当化したくてたまらなかった。自分を支えてくれるものを、愛情と同じように欲していた。
――予定にないことをすれば、また自分はミスを犯すだろう。
子供の泣き声。周囲の喧噪。
――だから仕方がない、だから仕方がない。
笑う高校生。照りつける太陽。
――至急、先方の総務に。
過去の失敗。上司の叱責。
――そう、私は急がなくてはいけない。誰かそばにいる人が、あの子に構ってやればいい。
永遠のような子供の泣き声。
――至急、先方の総務に。
何か抽象的な喪失感。
――至急。
女は、バス停の横を、泣き叫ぶ子供と高校生たちとの間を、早足に歩き去った。無表情に。腕に大きな鞄を抱えて。
4
駅前を通った人々の内の何人かは、
――泣きやめばいいのに、
と思った。
苛立ちや同情、哀れみといったプロセスを全て無視して、ただ単に、シンプルに、
――泣きやめばいい、
と思って、その場を通過したのだ。
5
子供の泣き声を聞いて、駅から出ようとした老婦人の足が止まった。
刀自は鮮明にある場面を思い出した。よみがえる、というほど昔のことではない。つい最近の出来事であったし、また、この頃だからこそ起こったことだと刀自は考えていた。
刀自は庭で植物を育てていた。花では紫陽花を好んでいたが、最も好きなのは松だった。さらに正確に言えば、松を剪定している夫の姿をこよなく愛していた。丁寧に整えられた松を、庭の椅子に腰掛けていつまでも眺めていることが、刀自の静かな娯楽だった。
涼しくなり始める夕方頃に庭に出ていると、ちょうど下校する小学生が家の前を通る。それを見ると、刀自はかつて幼かった自分の子がいるような気になる。そうして、ふっと笑みを浮かべ、「こんにちは」と声をかけるのだ。
挨拶を返してくれる小学生は、しかし、半数くらいのものだった。あとの半数は、少し頭を下げるか、戸惑ったように通り過ぎていく。刀自はわずかに寂しさを覚えながらも、にこやかに挨拶を続けていた。そうしているうちに、うつむいていた子が小さな声で「……にちは」などと言ってくれた日には、刀自は夫を捕まえて延々とその喜びを語るのだった。
小学生たちの中に一人、やはり挨拶を返さない男の子がいた。それどころか、刀自が声をかけると、怯えたように顔をひきつらせ、時には駆け足で逃げていった。初めて逃げられた日、刀自はそのショックで夕飯を一つも口にできなかった。
しかし刀自は、いつかその子が心を開いてくれることを期待していた。だから、他の子と同じように挨拶をしたし、他の子にする以上に親しみを込めたつもりだった。男の子は相変わらず逃げ続け、刀自の家の前を走って通過することもあったが、刀自は諦めず「こんにちは」と明るく声をかけたのだった。
ある日、やはり刀自は男の子に微笑みかけた。男の子はびくりとして、足を止めた。それを好機とばかりに、刀自は続けて「学校は、楽しかった?」と問いかけてみた。
瞬時、男の子は顔を歪ませた。そして、何か意味のわからないことを叫びながら駆け出していった。刀自は呆気に取られて、その後ろ姿を見送っていた。
その日の夕方になって、男の子の母親が刀自を訪ねた。
「困ります」
母親は、はっきりとした声で言った。何の迷いもなかった。
「うちの子が、怖がっているんです。もう二度と、声をかけないでいただけますか」
刀自はいくらでも反論できただろう。自分が何も間違ったことをしていない自信はあった。母親の言っていることを、はっきりと理不尽だと思った。
しかし、刀自は何も言えなかった。
相手は、ただひたすらに子供の心配をする母親の顔だった。
自分を信じて疑わない様子だった。
「これ以上は、やめてください。もう、決して」
刀自は、自分の意見が通じないことを悟った。気が付くと、母親に向かって謝罪の言葉を口にし、深く頭を下げていた。
この時以降、刀自は男の子に挨拶をしなくなった。それどころか、他の子にも声をかけない。庭に出て松の木を眺めること自体をやめてしまった。
夫は、急に沈みがちになった刀自を心配した。刀自は夫の前では、できるだけ気丈に振る舞った。しかし、眠ろうと目をつむれば、かならずあの母親の顔が浮かんできたし、外から聞こえる子供たちの声は、刀自の弱った心を貫いた。
そして今、刀自は、子供の泣き声に足を止めた。
子供に話しかけたかった。頭をなでて、飴の一つも与えて、場合によっては優しく抱きしめてやりたかった。しかし、その想像には必ずあの母親の表情がついて回った。泣いている子供が、いつも刀自の家の前を通る男の子であるはずがない。それでも、刀自は母親の影に縛られていた。
日が容赦なく照りつける。刀自はバスに乗る予定だった。バス停には雨避けの屋根がついている。しかし、そこでは子供が泣いているのだ。刀自はバス停の見える位置まですら動けない。
誰かの笑い声が遠ざかっていくのが聞こえる。しかし、子供の泣き声が小さくなることはない。
――誰か、あの子を慰めてあげて。どうか、どうか。
重たいほどの熱気が、ぐんと押し寄せる。刀自は目眩のするような感覚に襲われ、進むことも戻ることもできずに立ちすくんだ。
(2005.10.01)
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