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なぜ梨を食べなかったのか殺人事件 〈前〉
Why didn't he eat the pear?

  TAKE 1

「しかし……」
 と、巡査は言った。
「犯人は被害者を殺しておきながら、どうして現場に残された熊谷梨を食べなかったのでしょうか。この梨は、非常に高級なものなのでしょう」
 熊谷梨園の三代目オーナー熊谷豪三氏は悲愴な表情で答えた。
「はい。熊谷高原の豊かな土壌に育まれた三種の梨はいずれも糖度が高く、濃厚でありながらさっぱりした味わいです。もちろん、農薬や化学肥料の類は一切使っておりません。包丁でさっくりと切ると、みずみずしく甘い果汁があふれんばかりになります。一流レストランにも複数採用され、マスコミでも何度も取り上げられた、太鼓判付きのブランド梨です」
「そしてそのお値段は?」
「旬の今なら、一キロ千八百円の特別価格でご提供しております。ネットの通販も昨年開始して、ご好評をいただいております」
 そこに、警部がやってきた。巡査が敬礼をする。
「警部、ご苦労様です」
「現場の状況は」
「はい。被害者の状況はご覧の通り、小さめの刃物で刺殺されているようです。しかし凶器はまだ発見されていません。現場はこの書斎で間違いないでしょう。問題は熊谷梨のことです。被害者の前には、山盛りにされた熊谷梨が置いてあったのです。この梨は今話題の高級なもので、普通の人間なら食べずにいられるはずがありません。犯人は、なぜ梨を食べなかったのでしょう」
「それは簡単だよ」
「えっ、もうおわかりになったのですか」
 巡査と熊谷梨園の三代目オーナー熊谷豪三氏が注目する中、警部は推理を述べた。
「犯人は、梨を食べたくても食べられなかったんだ。なぜなら、ここにある梨は、皮をむかれていなかったからだ。りんごならともかく、梨は大抵皮をむいてたべるものだ。このままで食べることはできない」
「なるほど……」
「それだけではない。このままだと、被害者も梨を食べることができなかったはずだ。これだけ高級な梨を、単なる観賞用として置いておくとは考えにくい。被害者はどうやって梨を食べるつもりだったのか。おそらく、元々は梨と一緒に、皮をむくための果物ナイフが置いてあったのだろう」
「あっ」
「そう、犯人は果物ナイフで被害者を刺したのだ。そのため、皮をむくことができなくなり、梨を食べることができなかったのだ。また、その場にあった、しかも小型でさして鋭くないであろう果物ナイフを使ったことから、衝動的な犯行であっただろうと思われる」
「わかりました。被害者の知人の線から、犯人を探ってみます」
 巡査が急いで部屋を飛び出していく。熊谷梨園の三代目オーナー熊谷豪三氏は感嘆した口調で言った。
「さすがは警部さんです。お見事な推理でした」
 警部は自慢げな表情を見せることもなく、冷静に一礼した。

  TAKE 2

「そう、犯人は果物ナイフで被害者を刺したのだ。そのため、皮をむくことができなくなり、梨を食べることができなかったのだ。また、その場にあった、しかも小型でさして鋭くないであろう果物ナイフを使ったことから、衝動的な犯行であっただろうと思われる」
「わかりました。被害者の知人の線から、犯人を探ってみます」
「待ちなさい」
 急いで部屋を飛び出そうとした巡査を、警部が止める。
「話はまだ終わっていない。ここで問題になるのは、動機のことだ。この書斎で起きた衝動的犯行ということは、犯人が被害者と話している間に、何か犯人をかっとさせることが起こったはずなのだ」
「確かにそうですね」
「この書斎で話される話題とは何か。そこで熊谷梨のことが浮かぶ。芳醇な熊谷梨の放つ香りからすると、被害者と犯人との話は、自然と梨のことになっていったはずなんだ。梨のことで被害者を殺すほど恨みを抱くとしたら、それは誰か。それは、被害者の知人であり、熊谷梨園の三代目オーナーでもある、熊谷豪三さん、あなたです」
 熊谷豪三氏は、すっと顔面蒼白になり、床に膝をついた。
「警部さんのおっしゃる通りです……。しかし、奴はこの熊谷梨を侮辱した。どうしても許せなかったんです」
「被害者は、何をしたのですか」
「果物ナイフですよ」
 熊谷豪三氏は、吐き捨てるように言った。
「ひどいナイフだったのです。装飾は凝っていたようですが、全く砥がれていない。刃こぼれまでしていたのですよ。それで、私が丹精こめて育てた熊谷梨をむき、あまつさえ八等分にしようとしたのです。とんでもないことです。あんなに鈍いナイフで皮をむいては、糖度十五度の甘い甘い汁が無駄にこぼれてしまいます。しかも、八等分ですって? 信じられない……熊谷梨は、切るなら六等分までにしなくてはいけません。八等分するまでナイフを入れ続けては、果汁ばかり出ていってしまいます。おまけに、ナイフを持ったときのあの手つき! 震えているのが明らかでしたよ。熊谷梨は、鋭く砥いだ薄いナイフで、熟練された職人が一息にむくことで、最高のおいしさを得られるのです。それに、そうだ!」
 熊谷豪三氏は興奮して声を上ずらせた。
「奴はこの梨を常温に置いていた! 熊谷梨は、お客様の手に届いたとき最上の状態になるよう計算して厳選、発送されているのですから、届いたらすぐに冷蔵保存してもらわなくてはなりません。食べる前に氷で冷やしておいたら、その清涼感はどんな上質なスイーツにも負けません。なのに、ただ器に盛って書斎に置いておくだなんて、言語道断です。それをのろのろ切っていたら、奴の体温でさらに梨はぬるくなってしまったことでしょう。おまけに奴は汗っかきだった! そんな梨を……」
「お話はわかりました、熊谷さん」
 警部は、熊谷梨園の三代目オーナー熊谷豪三氏の肩に手を置いた。
「後でもう一度、その話をお聞かせいただきましょう。そのときは、調書を取らせていただきます」
「何度でも話すぞ!」
 熊谷豪三氏は喚いた。
「熊谷梨は、日本最高の糖度を誇り……」
 巡査は、無理矢理に熊谷豪三氏を引きずっていた。熊谷豪三氏は、部屋を出てからも喋り続けた。

  TAKE 3

「しかし……」
 と、巡査は言った。
「犯人は被害者を殺しておきながら、どうして現場に残された熊谷梨を食べなかったのでしょうか。この梨は、非常に高級なものなのでしょう」
 熊谷梨園の三代目オーナー熊谷豪三氏は悲愴な表情で答えた。
「はい。熊谷高原の豊かな土壌に育まれた三種の梨はいずれも糖度が高く、濃厚でありながらさっぱりした味わいです。もちろん、農薬や化学肥料の類は一切使っておりません。包丁でさっくりと切ると、みずみずしく甘い果汁があふれんばかりになります。一流レストランにも複数採用され、マスコミでも何度も取り上げられた、太鼓判付きのブランド梨です」
「そしてそのお値段は?」
「旬の今なら……」
 そこに、警部がやってきた。熊谷梨園の三代目オーナー熊谷豪三氏は、口上を遮られてむっとした表情になる。巡査が敬礼をした。
「警部、ご苦労様です」
「現場の状況は」
「はい。被害者の状況はご覧の通りです。問題は熊谷梨のことです。被害者の前には、山盛りにされた熊谷梨が置いてあったのです。しかも皮はむいてあり、六等分にカットされた上、氷で冷やされていました。鋭く砥がれたナイフも残されており、これが凶器になったようです。この梨は今話題の高級なもので、普通の人間なら食べずにいられるはずがありません。犯人は、なぜ梨を食べなかったのでしょう」
「それは簡単だよ」
「えっ、もうおわかりになったのですか」
 巡査と熊谷梨園の三代目オーナー熊谷豪三氏が注目する中、警部は推理を述べた。
「犯人が梨を食べなかった理由は、簡単だ。梨に、被害者の血がついてしまったからだ。だから、食べたくても食べられなかったのだ」
「しかし、梨に血がついているようには見えませんが……」
「よく調べてみなさい」
 言われるまま、巡査は梨を一つずつ改めてみた。
「警部のおっしゃった通りです。梨には皆、点々と血のついたような跡が残っていて、全て見えないように裏返しにされて器に盛られています。血の多くついたものは、下の方に隠されていますね。しかも、拭われているようです。」
「つまり、犯人が血を拭ったあと、梨に血がついて見えないよう細工したわけだ」
「しかし、どうしてそんなことをしたのでしょう。被害者の血は机や床にも付着していますよ」
「熊谷梨は……」
 熊谷梨園の三代目オーナー熊谷豪三氏が口を挟んできた。
「その透き通るような白さも魅力の一つです。ぎゅっと果汁の詰まった果実のきめ細やかな美白を、犯人は血で汚したままにしておくに忍びなかったのではないでしょうか」
「良い目の付け所ですね、熊谷さん」
 警部は大きく頷いた。
「梨に血がついてそれが拭われている以上、犯人は確実にその梨に触れている。鑑識に回して、何か痕跡が残っていないか調べてみよう」
「わかりました」
巡査が急いで部屋を飛び出していく。熊谷梨園の三代目オーナー熊谷豪三氏は感嘆した口調で言った。
「さすがは警部さんです。お見事な推理でした」
「いや、これは熊谷さん、あなたの協力があって初めて成立した推理ですよ」
 警部は無表情を保ったまま、冷静に一礼した。
(2006.09.02)

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