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アンデラクト 〈1〉
Under Act
「君は、初めてかな」
背の高い男、二人の若者に近付き、声をかける。男の風貌、紳士然として卑しからず、タキシードは身体の一部と見紛わんばかりである。
「劇団の後輩なんですよ。先日の舞台でも、共演しました」
両耳に大きなピアスをつけた若者、応じる。面立ち幼げな青年、ピアスの男の後ろに控え立つ。青年の表情、迷い子のように不安気である。
「君、名前は」
ピアスの男、青年に目配せする。青年、ピアスの男に言われていた通りに返答する。
「Gといいます」
「G。すると後藤君か、それとも権藤君か」
青年、口を結ぶ。ピアスの男、笑いつつ、助け船を出す。
「そういうことは、聞かないでくださいよ」
「Gは少ない。珍しい。SやKはごろごろしているが、Gというと後藤や権藤くらいしか思いつかん」
「蒲生かもしれませんし、行田かもしれませんよ」
紳士、首をかしげた後、整った歯をにやりと見せる。
「一理ある」
パーティ会場は、決して広くないものの、百人に満たない程度の参加者にはちょうど良いホテルの一室である。装飾は均衡が取れており、多用された赤色、まぶしく華やかである。参加者には、紳士のごとく正装した者もいれば、舞台稽古から直接駆けつけたような者もいる。点々と置かれたテーブルには、軽いオードブルの他は、飲み物の入った小さなグラスが並ぶ。グラスの中身はアルコールを中心に多種に渡り、色目豊かなモザイク画のごとき様相を呈している。
紳士、傍らのテーブルより赤ワインのグラスを取り上げる。ピアスの男、続けてグラスを取るも、青年、一人ウーロン茶を手にする。
「君、ワインにしなさい」
「申し訳ありません、僕は飲まないんです」
「グラスにほんの半分だ。構わないだろう」
「Uさん、勘弁してやってください。彼は、洗礼を受けたのも初めてなのです。アルコールは、避けたほうが良いでしょう」
「そうか、そういうことになるのだな。君、どうだった」
「洗礼とは何なのか、まだよくわからないのです。あの錠剤を飲むことが、洗礼なのですか」
「そう。幸福の儀式だ」
紳士、一歩足を進め、青年の手に片手を置く。青年、怯えた亀のように縮こまる。
「まもなく君にも、今まで知らなかった幸福が訪れるだろう」
「幸福とは何ですか」
「近いうちにわかる」
紳士、ぐっと青年の肩を押さえ、その後に手を離す。
「眠る前、一人で考えるようなときにはいつも思う。本当に優れた演技とは何か。それを手にするため、何をすべきか、と。私たちは舞台の上で、あらゆる悲しみを演じ、あらゆる喜びを語る。そのためには、世の全ての悲しみと喜びとを、共に知る必要があるのではないか」
「それは、この手では得がたい理想です」
ピアスの男、真剣な表情で言葉を挟む。青年、その言葉をまるで初めから決められていたものであるかのように聞く。
「そう。しかし、私たちは悲しみや喜びを作り出すことはできる。いや、そもそも多くが人間によって作られたものであると言っても良いだろう。悲しみは、しかし、人に突きつけるわけにはいかない。喜びなら分かち合うことができる。より多くの人間と共有できる。君、このパーティが、私の考え得る限りで、最も喜びを感じる、最も幸福な空間だ」
紳士、青年に向けて語る。
「目的はそういうことだ。しかし、堅苦しく考える必要はない。この場では、とにかく、楽しむことだ。スピーチも余興もない。何もなくして楽しむというのは、すぐには難しいかもしれないが、徐々に慣れていけばいい」
「はい」
青年、固く頷く。
「よろしい。では、初めての幸福に」
紳士、グラスを高く掲げる。ワインがこぼれんばかりに揺れる。
「乾杯」
「乾杯」
二つの赤いグラスと明るい茶色のグラスが一点に交わる。
「素晴らしい」
紳士、恍惚とした表情を浮かべる。
「乾杯は素晴らしい。君、このパーティの作法はいろいろあるが、とにかく乾杯をすることだよ」
「わかりました」
青年、頭を下げる。
「素晴らしい」
紳士、カモメのように微笑む。
「重圧がかからないところでの礼儀は素晴らしい。このパーティの、何もかもが素晴らしい。ああ、君は劇団の俳優なんだね」
「はい。小劇場で活動しています」
「なるほど。テレビに出るつもりはあるのかな」
「今はあまり……」
「まあ、思うようにやればいいさ。せっかくここに来たのだから、いろいろな人と話してみるといい。何かしら得るものがあるだろう。そう、乾杯を忘れないように」
「心がけます」
「ところで、君」
紳士、今度はピアスの男に声をかける。
「今日は、何かおもしろい話があるかな」
「お気に召すかはわかりませんが」
ピアスの男、唇をゆがめる。
「Eさんが、昼の連続ドラマに出演されているでしょう」
「ふむ。それで?」
「恋人役はRさんです。あの二人が、以前から交際しているというのは、ご存知でしたか」
「おや、本当にそうだったのか」
「そのようですね。結婚も間近ということですよ」
「めでたいことじゃないか」
「しかし、ドラマの放映期間中に、婚約発表の会見を行うつもりらしいんですよ」
「わざわざこの時期にするというのが、いやらしいな」
「製作側か、事務所側か、たぶん両方の計算なのでしょうね。事務所だとしたら、Rさんの方でしょう。彼女は今、必死ですからね。既に名の売れているEさんを利用しているように思われても、仕方がないでしょう。そもそも、RさんがEさんと付き合っている動機そのものが売名目的ではないか、と言う意地の悪い人もいましたね。製作サイドとしては、はじめから話題性目的で、あの二人をドラマに採用したみたいです」
「あのドラマは、くだらないな」
紳士、穏やかに断言する。判決を下す木槌のようだった。
「ええ、くだらないです。役者は良くないと言うより役柄に合いませんし、ストーリィも鈍い。企画の時点で、好意的な評価を得られないことはわかっていたでしょうね」
「その心構えがくだらないね。実にくだらない」
「つまらない話で申し訳ありません」
「いや、しかし、Rはこの会場にも来ているし、私は年末の舞台でも会うはずだ。彼女が結婚するのなら、それはそれで良いことだ。Eも、悪い男じゃないだろう。二人とも、役者としてはあまり買っていないが、かえって衝突がなくていいかもしれん」
「芸術上の衝突ですか」
「あの二人に使うには、芸術という言葉は惜しい。いや、興味ある話だったよ。ありがとう」
「次回は、もう少し楽しい話を用意してきますよ」
「頼むよ。それじゃあ、また。Gくん、君も、またどこかで会おう」
紳士、グラスの中身を飲み干し、会釈して別のテーブルに移る。その途中、会場の所々にあるカゴの一つに、空になったグラスを入れた。役者以外の人間を排除すべきとの考えに基づき、このパーティはウェイターを常には入れていない。二十分に一度、三、四人のウェイターが入ってきて、カゴを回収し、飲み物の入ったグラスを追加する。その作業は素早く、風に舞う木の葉を見ているかのようであった。
「Uさんは、このパーティを主催なさっている。舞台においても、若手の面倒はよく見てくださるし、何より人間として尊敬できる方だ。くれぐれも丁重に」
「はい。あの、先輩」
青年、ピアスの男に尋ねる。
「本当に、ここであったことは、全て忘れてしまうのですか」
「忘れる」
地球は回る、と言うかのように。
「全て忘れる。このパーティの間の記憶は、後には残らない。そういうことになっている」
「そのための洗礼ですか」
「そうだ」
「では、どうしてイニシアルを使う必要があるのですか。僕の名前こそ知られていないでしょうが、僕はここにいる皆さんの名前を知っています。皆さんだって、もちろんお互いの名前はおわかりでしょうさっきの話だって、同じイニシアルの人は何人もいるでしょうけれど、聞けば誰のことを言っているのかは容易に推測できます。なのに、どうしてですか」
「名前は現実に身をつなぎ止める強固なくさびだ。緩めておくに越したことはない。理由をつけるなら、そう……雰囲気であり、象徴だ」
「くさびを外してしまいはしないのですか」
「現実を捨てるつもりなら、そうしてもいいのだろう」
ピアスの男、青年の眼の奥を覗き込む。
「戻りたくないのか」
青年、思わず露骨に目をそらす。
「いいえ」
「そうか。――俺は、戻れないのならそれでもいいような気もする」
ピアスの男、いたずらめかして頬を上げる。
「しかし、このパーティの時間は厳密に限られている。洗礼から三十分後に始まり、二時間で終わる。この見事な時間が。ああ」
ピアスの男、人に聞かせるかのように嘆息する。
「あの洗礼は、大丈夫なのですか」
「大丈夫とは?」
「体に害があったり……」
「あるか?」
「いいえ、今のところ」
「あの薬は、うまく作ってある」
青年、薄い青色の錠剤を思い出す。パーティの前、ピアスの男から洗礼と称して渡されたものである。
「一錠飲めば、気分は天国だ」
「二錠飲んだら?」
ピアスの男、テーブルの上のカナッペをつまむように取り、一口に放り込む。
「何もかもが天国かな」
ピアスの男、機嫌よく笑う。
「このパーティでは、全ての重圧から解放される。なぜか? 現在の行動が、未来に関わらないからだ。今の失敗は今だけのもの。だから皆、よく喋るし、笑う」
ピアスの男、赤ワインの入っていたグラスをテーブル上に置き、カクテルを取る。透き通ったピンク色である。
「Uさんはしばしば、おもしろいことをおっしゃる。以前お会いしたとき、パーティのときではないが、そのときも礼儀について言っておられた。――『世の中のシステムは、シンプルなほど美しく、正しい。礼儀は、礼儀のための礼儀だからこそ美しいのだ』」
ピアスの男、余韻にひたるように目を閉じる。
「聞いたのが、パーティ中でなくて良かったですね」
「どうしてだ」
「パーティで言われたのだったら、その言葉は忘れてしまうのでしょう」
「確かに、言葉は忘れる」
青年、ピアスの男の口元を見る。
「しかし、それを聞いたときの心の震えは、消えはしない。たとえ、記憶に残らなくても、だ。自分が生まれたときのことは覚えていないが、生を享けたという経験そのものが有意味であるのと似ている」
ピアスの男、一人で乾杯をするかのごとくグラスを掲げ、唇を湿すようにゆったりと飲む。青年、パーティ会場を見渡す。シャンデリアから乱反射した光が、幾筋も重なり合い身体中を射す。
――青年には、迷っていることがあった。
(2006.06.07)
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