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マヨネーズ
Mayonnaise

 この頃世界を救うもの、
 愛と勇気とマヨネーズ。

 大水害だった。とめどなく水が溢れて、収束の時期は見当もつかなかった。人々は、終末の予感に怯えて、震えているばかりだった。
「それがもう一年も前のことですからな」
 と言いながら握手を求めてきた議員に、クレバ・ダインは微笑んで手を差し出した。いつも、にこやかな表情を崩さないクレバだが、さすがに疲れの色は消せない。それを見てとったサミュエル・J・ロックスは、クレバを手招きした。
「少しテラスに出ないか」
「それはいい。人に酔いそうなんだ」
 テラスに向かう道筋でも、クレバとサミュエルは、人々の握手と感謝の言葉に襲われなければならなかった。二人はこの会場で、いや、おそらくは世界のどこでも、英雄として扱われた。
「やれやれだな」
 とサミュエルは、ようやく出られたテラスで、ベンチに腰掛けた。クレバはその隣に座り、ポケットから出したハンカチで、汗を拭いた。それでも二人は、テラスに出ていた何人が順に寄ってくるのを相手しなければならず、本当にくつろげたのは、さらに後のことだった。
「僕達が外に出ていて大丈夫か」
「何、中にはまだチームのメンバーがいるし、皆さん食べたり飲んだりで忙しいことだろうよ」
 世界は救われた。クレバをリーダーとする、研究チームによって。クレバは、文字通り昼夜を問わない実験によって、水害を食い止める薬の開発に成功した。しかも、それは即効性があり、安価で、大量生産が可能という、まさに理想的なものだった。すぐさま薬は広められ、被害は拡大を止めた。事態が絶望化する直前の解決に、世界は沸き、クレバ達は賞賛の渦に巻き込まれた。
 サミュエルは、経理担当としてチームに参加していたが、クレバの幼馴染ということで、彼の精神的なサポートに回ることが多かった。雑誌の特集記事などでは、天才科学者・クレバを支えた親友として、サミュエルの存在は美談となった。
「浮かない顔じゃないか、クレバ」
「くたびれたんだ」
「本当にそれだけか。何か不安があるんじゃないのか」
「……大丈夫だ。気にしないでくれ」
 水害は恐ろしいものだった。期間こそ長くなかったが、今後の世界史年表に、確実に記される出来事ではあった。何しろ、あらゆるものが水になってしまうのだ。
 多くの人の最初の不審は、例えば、住居が水っぽい、というものだった。表面が濡れている、というのとは全く違う。物質それ自体が、水を含んでいるようだった。それが進んでくると、明らかにふやけてくる。触ったところから、剥がれたり、崩れたりしてしまうのだ。造られた時代が古いものから、そうなっていった。
 水っぽくなった物質は、最終的に、溶けるように水になってしまう。そうなれば、もうどうしようもない。道路、建造物、また身の回りの細かいものも、順々に水となっていった。どんな丈夫な金属も例外ではなかった。人々を真に恐怖させたのは、樹齢数百年という大木が水っぽくなったときだった。これで、有機物にまで水害が及んでいることがはっきりした。生物もまた水となってしまう可能性をそれは示唆していた。
「自分の功績を誇ったらどうだ。」
「そんな、おこがましいよ。」
 「クレバ薬」という仮称で呼ばれていた水害薬は、古代神話に登場する治水の女神からとって、「マヨネーズ」と名付けられた。そもそも、水害を食い止めるのに、原因の追究ばかりを行っていた他の科学者達は、マヨネーズの塗り薬という形態に驚いた。マヨネーズを直接物体に塗ることで、水っぽくなることを防ぎ、また、既に水害に侵されているものでも、その進行を止めることができた。その効果が実証されるやいなや、世界政府によってマヨネーズ予算が組まれ、マヨネーズは世界の隅々にまで行き渡った。各国指導の下、あるいは各々個人によって、マヨネーズは塗りたくられた。
「もし、マヨネーズに何か欠点があるのなら、教えてくれ。すぐ人々に知らせるのは危険だが、俺達としては、対策を練る必要があるからね」
 とサミュエルは声をひそめて尋ねた。
「いや、マヨネーズは、さしあたり心配ない。僕の試算では、少なくとも今後二百年に関しては、安全なはずだ。もちろん、これからの研究次第で、多少の変動はあるだろうが」
 ベンチの背にもたれながらも、クレバは力強く答えた。
「それならいいんだが」
 CH3COOHを含む液体と油分、それにある鳥の卵を混合すると、それは水害の特効薬となった。このマヨネーズ開発の成功には、偶然が味方していた。二日ほど徹夜を続けたクレバが、半ば眠りながら、朝食にサニーサイドアップを作ろうとしたとき、卵を試作品の入ったビーカーに割り入れてしまったのだ。思わず悪態をついたクレバだったが、試作品につないであった検査計の反応を見て、一気に目が覚めた。もう朝食どころではない。仮眠をとっていたメンバーを叩き起こして、解析を始め、その日の内に、マヨネーズは実用に耐え得るものと判断された。
「運が良かったよ、俺達は」
 とサミュエルは笑った。クレバも、つられて頬を緩めたが、芯から笑っているようには見えなかった。サミュエルは、クレバの肩に手を置いた。
「どうした。お前は、もっと喜んでいいんだぞ」
「そうそう喜べないさ、サミー」
 クレバは、スーツの懐から煙草を取り出し、火をつけずにくわえて噛み出した。それを見たサミュエルは、ため息をついて、クレバの前に立った。
「お前が全部解決しようと思うなよ、クレバ。マヨネーズを開発しただけで、俺達のチームは、十分な貢献をしたことになるさ。現に、他の研究チームがどんどんマヨネーズを改良してくれている。そりゃ、マヨネーズだって完璧じゃない。塗った直後はべたべたするし、卵不足で、お前の好きなサニーサイドアップも食べられなくなった。けど、それが何だ。俺達は、世界の終わりを遠ざけたんだ」
「それは最低ラインだった。マヨネーズでは、守れないものもたくさんある。例えば、書物がそうだ。仮に水害は食い止められても、マヨネーズの油分で、使い物にならなくなる。結局、今でも史料は失われ続けているだろう」
「それは、仕方のないことだ」
「僕は、それを仕方のないことだと終わらせたくないんだ」
「お前は働きすぎだ。しばらくは、休んでいいんだぞ」
「僕らには、責任がある。サミー、君にもだ」
 とクレバは、サミュエルを見つめた。欠けも傷もない黒真珠のような目が、クレバ自身の性格をよく表していた。サミュエルは折れた。
「わかった、わかったよ、クレバ。お前が納得するまで、研究は続ければいい。金だって入ることだしな。俺も、最後まで付き合うよ」
「ありがとう、サミー」
 と言ってクレバはようやく肩の力を抜いた。
「それから、もう一つ、心配なことがある」
「何だよ」
「他の世界のことさ」
 サミュエルは、意味がわからず、首を傾げた。クレバは、空を指差した。暗くなりかけた空に、うっすらと星がいくつか見えている。
「あそこにある、別の世界のことを、僕は気にしているんだ」
「何を言っているんだ、クレバ」
「大水害のせいで印象が薄れてしまったが、学会に発表があったじゃないか。僕らの住む世界と、ごく近い性質の世界が、この宇宙のどこかにあるってね」
「ああ、そうらしいな」
「ということは、そこでも水害は起こり得るんじゃないか」
 サミュエルは、ようやく、クレバの言わんとするところを察した。
「おいおい、さすがに考え過ぎだ、クレバ。どこにあるか、今の段階じゃ、本当にあるかわからん世界のことまで、お前が心配してどうする」
「いや、しかし、やはり考えてしまうよ」
 クレバは、星を見ながら話を続けた。
「宇宙のどこかにある別の世界で、水害が起きる。世界が混乱する。彼らは、マヨネーズを開発できるだろうか? 僕らがマヨネーズを作り出せたのは、本当に幸運だった。あんな偶然が、別の世界でも同じように起きるとは限らないだろう」
「確かに、あれは偶然だった」
「別の世界では、マヨネーズは生まれないかもしれない。仮に、マヨネーズが発見されたとしても、それが水害の薬になるとは気付かれないかもしれない。そんなことを知らずに、マヨネーズを野菜にでも塗って、食べてしまっている可能性だってある」
「それはちょっと、荒唐無稽じゃないか」
「そうかもしれない。しかし、僕は、せっかくマヨネーズを発見したんだ。世界のどこであれ、別の世界であれ、僕が救えるものがあるなら、それは全て救いたい」
 サミュエルは、最近の流行り歌を思い出していた。この頃世界を救うもの、愛と勇気とマヨネーズ。何が愛と勇気か、と笑っていたサミュエルだったが、しかしこの歌はまさしく真実であると思い始めていた。サミュエルは、自らの旧友・クレバを改めて見つめた。
「しかしお前はやはり考え過ぎだよ、クレバ」
「そうかな」
「そうだよ」
 仕方なく、サミュエルはクレバに抱きついた。親が子にするように、親友の背中を叩いた。愛と勇気とマヨネーズ。人生をかけて、クレバのそれに付き合おうと、サミュエルは決意していた。
 世界は、マヨネーズに覆われていた。夜空の星が、マヨネーズでてらてら光る建物に、地面に、世界そのものに反射した。仮に、この世界を誰かが外から見ていたとしたら、てらてらと光る様子から名付けて……いや、これは余計な想像だろう。宇宙を全て映し出すように、世界はマヨネーズでいっぱいに輝いた。
(2007.07.17)

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