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昼の頭痛 〈後〉
Headache in the Daytime
二人とも休みの日曜日だった。大学近くの静かな喫茶店で会うことにした。
久し振りに落ち着いて香音と顔を合わせた。香音は心なしか顔色も明るく、僕は彼女の頭痛が本当に治ったことに安堵した。
もちろん、そのために納得できないこともある。
「大江さんの手紙、持って来てくれた?」
「ええ」
香音の差し出した紙をテーブルに広げる。昨夜、香音が電話口で教えてくれた通りの言葉が、大江さんの非常に個性的な筆跡で書かれていた。
《コンタクトレンズを左右入れ替えてみたらどうか》
コーヒーと紅茶の間で、エアコンの風に紙が揺れる。
「どうして、大江さんはこんなことを」
テーブルに肘をついて、上目遣いに香音を見る。
「君は、この通りにしたんだね」
「はい」
「僕にはそもそも、この意味がよくわからないんだけどさ」
紅茶を一口こくりと飲んだ香音は、ほんの少しだけ唇の端を上げた。
「モンブランを」
「え?」
「モンブランを食べてもいいですか。払いますから」
「ああ、いいよ。別に、奢ったって構わないし」
貧乏学生の身なので、割り勘はもちろん助かる。しかしそれを表には出したくないという見栄がある。
とにかく、香音は店員を呼んでモンブランを頼んだ。体調が良くなったせいかもしれないが、普段より快活に見える。
「――頭痛の原因は、私がコンタクトレンズを左右逆に付けてしまったことだったんです」
「そんなことって、あるの」
「たぶんケースにしまうときか、目にはめるとき、入れ替わってしまったんだと思います」
「それで頭が痛くなるっていうのは、左右の視力が違うってこと?」
「はい。左の方が、若干いいんです。だから、本来右目にはめるコンタクトの方が、度は強いです」
「でもそれだったらさ、逆にしちゃったときにわかるものじゃない?」
両目とも視力が一・二の僕には、どうも実感が湧かない。
「視力の差は、本当にちょっとしたものですよ。私は元々の視力が悪いし、コンタクトの度数は、左右で〇・二五違うだけです。意識すればわかるかもしれないですけれど、両目ともコンタクトをはめてしまえば、よく見えるようになったな、としか感じません」
淡々と説明しながら、香音はモンブランを忙しく口に運ぶ。いつの間にか残り半分になっているので、びっくりしてしまった。
「ええと、つまりコンタクトレンズが入れ替わっていたから、左目が見えすぎて、右目が弱くなって」
「左目が問題なんだと思います。片目だけ、一・五以上になることになりますから」
「それで頭痛、と」
頭痛の原因は、とりあえずわかった。香音がコンタクトを入れ替えると、それで頭痛が治まったというから、この点については文句ない。
「じゃあ、僕が不思議なのは、どうして大江さんがそれをわかったかっていうことだよ」
ここまでくれば、もう隠しておけない。僕は「カノン」の原稿を鞄から取り出した。そして、香音がこの作品のモデルであることなどを説明した。
僕が小説を書いていることは話していたが、これには香音も驚いたらしい。「ま」を発音する形に口が開いている。
「怒った?」
「いいえ」
香音は首を横に振った。
「でも、私、ベイクドチーズケーキも好きなんです」
気が付くと、香音の皿は空っぽになっていた。紅茶のカップも乾ききっている。
「遠慮しないでいいよ。昨日、バイト代も出たから。ご馳走する」
そう言うしかないではないか。
ケーキと紅茶のお代わりを待つ間、香音は「カノン」に目を通した。他人に作品を読まれることに照れは全くないが、こと今回に関しては別だ。機嫌を損ねれば絶交ものである。
気をそらすくらいのつもりで、こう言い出してみる。
「大体、大江さんはこの原稿を読んだだけなんだ。コンタクトが左右入れ替わっているどころか、香音がコンタクトレンズをしているかどうかさえ、知らないはずなんだ。僕だって、そんなこと知らなかった」
原稿に目を落としていた香音が、視線を上げた。
「どうして?」
「どうして、って……」
「だって、私が眼鏡をかけているところは見ているじゃないですか」
香音は、「カノン」の眼鏡に関する箇所を開いた。
「ほら、眼鏡をかけたところの輪郭、かなりずれていたって気付いていたでしょう?」
「うん、まあ」
「それだけ度の強い眼鏡をかけているのに、普段裸眼で過ごしているわけがないです」
僕は思わず口を尖らせた。
「僕は視力が良いから、そういう感覚がわからないんだ」
「じゃあ、大江さんは目が悪いんですか」
少なくとも眼鏡はかけていない。僕は、大江さんがあの太い指で、どんぐりのように小さな目にコンタクトをはめているところを想像しようとした。
「……わからないけれど、視力は良いのかもね。そんな感じだ」
「じゃあ、それで私がコンタクトをしていることは、大江さんにはわかったとします」
ベイクドチーズケーキも届き、主導権は完全に香音の方に渡っていた。
「問題は、それがどうして頭痛の原因と結びついたかですよね」
「あの人の頭の中はわからないよ」
「でも、大江さんはこれだけをヒントにしたはずなのでしょう」
香音は手元の「カノン」を僕に示した。
「だったら、私達にもわかるはずです」
香音が妙に張り切っているので、正直僕は面食らっていた。
「いやに乗り気だね」
「私、アガサ・クリスティが好きなんです。特に、ミス・マープルが」
「安楽椅子探偵だ」
思わず合いの手を入れると、香音はにっこり微笑んだ。ミス・マープルが果たしてケーキ好きだったかどうか、僕は知らない。
「わかった、こうなったら付き合うよ。でも、どこに目を付ければいいんだろう」
「私の頭痛に関して書いたところはどうですか」
二人でテーブルの真ん中に置いた原稿を覗き込む。時計の秒針が二回りするくらいの沈黙が下りた。先に僕から口を開く。
「僕は、たぶんわかったと思う」
「私も」
「せーので、指差そうか」
僕の合図で、二人の指が同時に原稿の同じところに向いた。
《実際、「今日は一日寝ていると決めました」とカノンが言った日には、彼女の頭は全く痛まなかったという。登校の準備をすると痛む。
「外に出、外に出ようと支度をすると、ぼんやり痛くなって」》
「一日寝ているってことは、その日はコンタクトを付けないんだね」
「はい。そうです」
「それで、外に出る支度の中には、コンタクトをはめることが含まれるわけだ」
「その通りです」
つまり、コンタクトを付けているときに頭痛が起こるという因果関係を、ここから読み取ることができた。
「大江さんも、ここに気付いたのでしょうね」
二人の意見が一致したことに喜びながら、僕はふいに思い出した。
《お前、この子と一晩過ごしたことはあるんか》。
大江さんが、香音の頭痛の原因に気付いていたとしたら、なぜあの場でこんなことを言ったのだろう。俗的興味が理由でないとしたら、質問の意図がわからない。
しばらく香音そっちのけで考え込んでみた。少しは良いところを見せたい、という思いもちらりとあった。
これだ、という答えを見つけたときには、香音の前に三杯目の紅茶が運ばれてきていた。
「あのさ、昨日、大江さんが」
僕は意気込んで《お前、この子と一晩過ごしたことはあるんか》のことを話した。さすがに香音も目を丸くしたが、僕の話す続きに耳を傾けてくれた。
「どうしてこんなことを言ったのか、変に思ったんだ。きっとこうだと思う。大江さんは僕に、香音がコンタクトレンズを外すところを見たことがあるかどうか聞きたかったんじゃないかな。夜になれば、コンタクトを外すだろう。君がコンタクトをしているかどうかの、証拠が欲しかったんじゃないかな」
香音は、ケーキの最後一口を放り込み、ほんの数秒、宙に視線をさまよわせた。
「それだけじゃないかもしれません」
「えっ」
香音は、しばし自分の考えをまとめるように口をもごもごと動かしてから、はっきりと言い出した。
「大江さんが知りたかったのは、私のコンタクトが使い捨てかどうか、ということだったのではないでしょうか」
「使い捨て?」
「はい。最近、使い捨てのコンタクトレンズが出てきたことはご存知ですか」
僕でも、そのくらいは聞いたことがある。目に入れるものだから、使い回すのは確かに不衛生な気もする。しかし、使い捨てとなると費用がかかって仕方がないだろう。
「一ヶ月ごとに交換するものとか、二週間ごとに交換するものとか、いろいろあるんですけれど。もし、私のコンタクトが使い捨てタイプで、新品と交換していたとしたら」
僕はようやく合点した。
「それまでコンタクトの左右が逆になっていたとしても、レンズそのものを交換すれば、当然左右は正されるわけだ」
「はい。そうすれば、頭の痛みは治まっているはずです。けれど、私の頭痛は二週間近く続いた」
香音は、三杯目の紅茶に砂糖を入れなかった。そのまま一息に半分ほども飲み干す。
「想像するに、大江さんにも、確証はなかったはずです。もし私のコンタクトが使い捨てで、既に交換していたのなら、大江さんの仮説はすぐに否定されますから。それでも、大江さんは私にその仮説を伝えてくれました」
二人同時に、悪筆の手紙に視線を注ぐ。
「結果的に、という言い方もできますけれど、私のコンタクトは破損するまで交換しないタイプでしたし、頭痛の原因はコンタクトにありました。大江さんには、本当、お礼を言わなくてはいけないですね」
僕は何となく口を結んだ。香音から目をそらしてしまった。
今、自分の気持ちに一番近い感情は、恥だった。
恥ずかしい。香音の異変を前に、僕が思っていたことは何だった?
僕はそこに恋愛を見、一種の芸術的なものを見、あまつさえ、喜びさえ見出していた。
香音の辛さを解消するためのヒントは、目の前にあった。僕自身がそれを記録していた。なのに、僕はただ小説を書くことに捉われていた。優れた作品を生み出すことにばかり執心していた。
香音を救ったのは、大江さんだった。僕じゃない。
「どうしたんですか」
「あ、いや」
一瞬口ごもり、僕はテーブルに両手をついた。頭を下げる。
「ごめん」
「どうしたんですか、急に」
「君を助けてあげられなくて」
「やめてください、そんな」
香音は僕の手に手を添えた。それがいたたまれなくて、僕はそれを振り払った。両手で顔を覆う。
「僕は、もう筆を折ろうと思う」
抑え切れずにそう言ってしまった。
「あんな小説に、意味はない」
「そんなことを言わないでください」
香音が僕の顔を覗き込んだ気配を感じた。
「『カノン』を書いてくださらなかったら、私の頭痛はまだ解決していなかったかもしれないんですよ。何か気にしていらっしゃるなら、そんな必要はありません。好きで書いているのでしょう? どうか、続けてください」
僕は自分の手を下ろした。香音の心配そうな顔が目の前にある。
その表情を間近に見るのは忍びなかった。
「――わかった、これからも、また書くよ」
「ええ、それがいいです」
僕は腹の底から息を吐き出した。
「本当は、ああ、まずいことを言ってしまったと、少し後悔していたんだ」
香音は「まあ」というような声を出して、くすくすと笑った。つられて、僕も目を細める。
僕は冷め切ったコーヒーを、香音は紅茶を、同時に飲み終えた。伝票は僕が持つ。そうして二人で店を出た。ドアのベルがカランと鳴る。
「今から、どこに行こうか」
僕達は並んで歩き出した。後で謝るにしても、差し当たりしばらくは、大江さんのことを忘れていようと僕は決めていた。
(2007.09.07/2007.09.20改)
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