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昼の頭痛 〈前〉
Headache in the Daytime

 僕とカノンは初夏に出会った。
 僕は店員で、彼女は客だった。
 僕は平凡な男子だったが、彼女は愛らしかった。
 はっとするほど美しいというのではなく、何か細工のある皿をずっと見つめていると目を離せなくなるような、そんな魅力があった。
 僕はうだつの上がらない法学部生で、彼女はうつむき加減な理学部生だった。
 彼女には吃音癖があるようだった。
 しかし彼女はこのところ、僕の前では吃らない。それが僕を喜ばせた。
 僕とカノンは互いを高めあっていける。その可能性を僕は頼もしく信じた。
 僕とカノンは、初めは木曜日だけ会っていた。
 それは僕が雑貨屋でアルバイトをしている日であり、彼女がその近くにある実験棟の附属したキャンパスに出向いてくる日でもあったのだ。
 その内、僕とカノンはそれだけでは満足できなくなった。
 僕と彼女は時間を合わせて会うようになった。それは週に二回だったり三回だったり、もっと多かったりした。

 会う回数が多くなれば、互いに相手の色々な面を目にすることになる。
 例えば、カノンが眼鏡をかけているところは、彼女を知ってずいぶん経ってから初めて見た。
 黒の細縁で、彼女によく似合っていると思った。それを伝えると、カノンは「最近は、滅多にかけないから……」と恥じらうように言った。
 僕はカノンを見た。レンズを通して、彼女の輪郭が大きくずれて見えた。
 まだ自信のなかった僕は、彼女を自分の思うように歪めて見てはいないか、と自問した。答えはノーだった。心にはそれ以外の返答が全く浮かばなかった。
 僕は自らの盲目を疑い、自らそれを否定した。
 それにどの程度の信憑性があるかはわからない。
 しかし僕は、それでとりあえずの安心を得た。僕はカノンとの付き合いから迷いを取り除くことができた。

 また、あるとき、カノンが小さなノートをよく手にしていることに僕は気付いた。普通使う大学ノートの半分くらいの大きさだ。
 僕はそのノートの中身を見せてもらった。最初は数字や記号が並んでいたので、講義ノートなのかと思った。
 しかし次のページでは海外詩人の作品が書き写されていた。
 その横には《トーフ、ひき肉(合いびき)、ニンジン》というメモがあった。
 さらに、女の横顔らしい落描きがあった。聞くと、図書館で偶然隣に座った人を描いたのだと言う。
「わたしは、何でもここに書いてしまうんです」
 カノンはそう言ってはにかんだ。
 待ち合わせをした日、先に来ていたカノンが、ノートに何かを書いていた。僕が来るのに気付くと、慌ててそれを閉じてしまった。
 僕はからかうように、そして少々の不審を交えながら、ノートを見せてくれないかと問うた。カノンは、僕から隠すように、ノートを胸に抱えて答えた。
「あなたのことを書いていたのです」
 こんなに愛しいことはなかった。

 僕とカノンの関係性には、細く切り立った道を行くようなところがあった。
 僕はそれはそれで悪くないと思っていたし、カノンも急に大きく足を踏み出すのには躊躇していたようだ。
 それが少し変わったのは最近のことだ。
 喫茶店で会っている最中、カノンがときどき眉根を寄せていることには気付いていた。何度か頭を抱えることもあった。
 カノンは壁際のソファ席に座っていたのだが、とうとう僕に許可を求めて、そこに横になってしまった。
「しんどい? どうしたの」
「頭が痛いんです」
「帰ろうか」
「いいえ、たぶん大丈夫。今日の朝から、調子が悪くて」
 しかし、カノンが他人のいる場所で隙のある体勢をとることは、いかにも彼女にそぐわなかった。
 彼女は自分のことをいささか弱く評価し過ぎているきらいがある、と僕は思っている。それだけに、自分の身を守ることには彼女は必死になるはずなのだ。
 結局、僕は飲みかけのコーヒーと紅茶を残して、カノンと一緒に店を出た。彼女をアパートの前まで送り、そこで別れた。
 そしてここ一週間ほど、僕はカノンとは会えていない。今でも、木曜日には僕のバイト先に来るのが彼女の習慣だったが、今週はそれもなかった。
 その代わりに、電話は毎日交わした。僕の姿が見えない状況に慣れないのだろう、電話先にいるカノンの喋り出しには、同じ音が繰り返された。
「よる、夜の寝る前と、起きてすぐは痛くないんです。でも昼間はちょっと辛い」
「学校には」
「い、今日は、い、一限だけ受けて帰ってしまいました」
 僕は直感的に、ストレスのせいかな、と思った。
 学校に行きたくない子供の腹は、昔から痛むものと決まっている。彼女の場合、それが頭にきたのかもしれない。
「大学には、無理に行かないほうがいいよ」
 そう言ってから、ふと僕は悲しい可能性を思い浮かべた。カノンが、大学ではなく、僕との付き合いに対してストレスを感じているという可能性だ。
 僕は次の日、あえて連絡を取らなかった。そうしてカノンの反応を見ようと思ったのだ。
 夜遅くなって、カノンから電話が入った。
「きょう、今日は、忙しかったのですか」
 一人で一日中留守番をしていた幼い子の声を聞くようだった。
 僕は即座に、電話をかけなかったことを謝った。そして、毎日連絡を入れることを約束した。
 実際、「今日は一日寝ていると決めました」とカノンが言った日には、彼女の頭は全く痛まなかったという。登校の準備をすると痛む。
「外に出、外に出ようと支度をすると、ぼんやり痛くなって」
 僕は彼女を病院に連れていくことを検討し始めている。
 このような彼女の変化を、僕は非常に心配している。
 しかし、不謹慎ではあろう、しかし僕はこのことに喜びの種が潜んでいるのを見つけてしまった。
 次に彼女と会うとき、僕は今まで以上に彼女について何らかの発見をするだろう。彼女もまた、僕に何かを見るかもしれない。
 温かい湯に二人で浸かっているような、僕とカノンとの付き合いに、今まさに変化が起こっている。
 その先にあるものが望ましい好転であることを、僕は期待する。
 また、そのように転じさせる義務が、僕にはあるだろう。

          *

 許せない。あんまりだ。
 僕はこれを書くことによって、そして彼がこれを読むことによって、彼との関係が絶たれてしまっても、全く構わないと考えている。
 大江さん、あなたは何ということを言ってくれたのですか。
 問題は、「カノン」に対する大江さんの反応にあった。
 書いている作品は完結するまで見せない、という人も多いが、僕はそうでもない。
 一度終わらせた原稿を直すのは大変だが、途中なら融通が利く。だから僕は書きかけの原稿をよく部室に放置する。
 「カノン」と題して書き出した私小説もそうしておいた。
 飲み会の前に部室に行くと、先輩や同窓生が僕の原稿を回し読みしてくれていた。評価はおおむね高くなく、それはいつものことなのであまり気にしない。僕が文章を書き出したのは大学に入ってからで周りの皆に比べて、一日の遅れがあることはわかっていた。
 ある先輩などは、一読、言下に「良くない」と言った。これも、僕は別の理由で意に介さなかった。この先輩は、私小説そのものに否定的なのだ。
 なぜ私小説なのか、ということについて議論したこともある。僕は、普段表に出ることのない一個人の体験と感情を人に知らせる、その機会を正当化することの意義を説いた。
 議論によって意見が変わった人はなく、そうやって終わった議論に虚しさを感じないでもなかった。「肩をすくめて、そういうものだよ、と言っておけばいいんだ」と言う先輩もいた。
 そして僕は私小説をぽつぽつと書いている。
 「カノン」は、僕と香音との関係について、できる限り忠実に書いているつもりだ。
 現在進行形であり、終わりがどこになるかはわからない。それこそが、僕の信じる私小説の価値を生むことになると思っているのだ。
 大江さんは、いつものように、部室での飲み会になってからやって来た。
 一時間ほど飲んで、いい気分になった先輩達が、大江さんに僕の原稿を渡した。博覧強記にして論客の大江さんであるから、先輩達としては僕をこてんぱんにするつもりだったのかもしれない。
 猪口を傾けながら原稿を一通り読み終えた大江さんは、ちょっと首を傾げた。大江さんの、放言に慣れている僕は、何を言われても動じないよう覚悟していた。
 しかして、大江さんは酔い始めた赤い顔を向けてこう言った。
「お前、この子と一晩過ごしたことはあるんか」
 かっと血が沸き立った。
 俗な、週刊誌をめくるような興味を持って、僕の原稿が読まれた。それは我慢のならないことだった。
 作品としての批判を受けることについては、文句を言えない。
 しかし、本質を全く外したこの質問に、答える必要などあるだろうか?
 僕は黙って席を立った。先輩達が静まったようにも思えたが、気のせいかもしれない。大江さんがどうしていたかは知らない。
 もういい。どうなっても構わない。この先、大江さんと顔を合わせないためなら、サークルを辞めてしまっても良いと思った。
(2007.09.06/2007.09.20改)

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