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僕は弓島辰子に会いに行く 〈後〉
I go to meet Yumishima Tatsuko
*
辰子は、少なくとも表には動揺を見せずに、こう切り出した。
「じゃあ、君自身のことを話してはくれないかしら。突然こんな山の中までやってきて、弓島辰子のことばかり。私には、君のことの方がよほど気になるわ」
透ははっと頬を朱に染め、恥じたように顔を伏せた。なかなかナイーブな少年であるようだ、と辰子は思った。
「君の時代、そう遠くない時代であるようだけれど、そこにはタイムマシンでもあるのかしら」
「いいえ。時間を自由に移動する技術ができるのは、もっと先のことです。僕は、僕の時代までさかのぼってきた未来の人に、ここまで送ってもらいました」
「まあ、どうして君がそんなサービスを受けられたのかしら」
「何か、抽選に当たったようなものと言うか、実際僕は運が良かったようです。今も、夢の中にいるような心地がします」
言葉通り、熱に浮かされたような透の様子を、辰子は興味深げに眺めていた。
「それに、そうです、未来の人も、偶然にも弓島辰子のファンでした。弓島さんのお若い頃に会いに行きたい、と言っただけで、ここに連れてきてもらえました。弓島さんは、ずいぶん後の時代まで知られているようです」
「待って」
正直、弓島辰子の名が後代に残っているということを、辰子は嬉しく聞いた。しかし、今の関心は透の側に向かっていた。
「じゃあ君は、弓島辰子に会うためだけにここに来たの? この時代に?」
「はい」
「他のところは何も見ていないの? 街や、人や、ここ以外のものを」
「時間移動をして、初めからこの森にいました。そのまま、まっすぐコテージの方まで歩いてきました」
透は、迷いのない眼を辰子に向けて頷いた。
「弓島さんが無名時代、このコテージに一人でこもっては、演技修行をしていたことはよく知られています。僕はそこに来てみたかったのです。そのときの弓島さんとお話ししてみたかったのです。将来、時代の先駆者と呼ばれる弓島さんに」
熱を込めて語る透は、無意識にか手振りを交えて話していた。辰子は、透にどのような反応を見せるべきか、とっさにはわからなかった。その代わりに、「君は、演劇をやるのね」と尋ねた。透は、ためらう様子を見せてから、「はい」と答えた。
*
透は一口もジュースを飲んでいなかった。辰子が勧めると、ようやく水滴のびっしりついたグラスを手に取った。
「私に何か聞きたいことがある?」
「ああ、ええ……」
一口含んだだけでグラスを置き、いささか反応鈍く透は喋り出した。
「弓島さんは、未来の、つまり弓島さんのご活躍されている時期の」
「それは私にはよくわからないわ。君の言っていた、三十半ばくらいの年齢のときということ?」
「はあ、はい。その時期の、演劇界におけるご自分の立ち位置について、今からお考えになっていることはありますか」
「いつの時代にしろ、その背景がどうあるにせよ、それは役者ですから、無二の存在でありたいという思いはあるけれどね。それから、人をびっくりさせたいというのもあるわ。私のすることに、意表を突かれてほしい。そのために、時代を掴む、というのは必要なことでしょう。けれど、今、例えば十年以上先の流行に合わせようとは思いません」
そう言って、辰子は透の様子を観察した。透は、落ち着かなく手を動かした。グラスを握っては離す。手に水のまだら模様ができた。
「先程お見せした映画ですが、ここでは女性の日常の切り取り方が独特でした。例えば」
透はそこから、辰子の演技のどこが優れているか、どの点が評価されたかを、細かく例を挙げながら説明し出した。この作品のこの役ではどうだった。この役ではこうだった。入念な台本読みを行ったかのように、言葉はすらすらと途切れることがなかった。
それを黙って聞いていた辰子は、透の息継ぎを見はからって、声をかけた。
「ちょっと、話すのをやめてくれるかしら」
辰子は立ち上がった。テーブルに手をついて、ぐっと身を乗り出す。透は、おびえたように身を引いた。
「君はつまり、弓島辰子に会いたいというのが目的ではないのでしょう」
声は地を這うようだった。身にまとう空気がゆらりと揺れるようだった。辰子は透の中に言葉を押し込んでいった。
「ええ、会うは会いたかったでしょう。でも、君は教えたかったのね。弓島辰子が、弓島辰子として成功した理由を」
辰子は、透の眼の、ずっと奥のところを見つめるようにした。透は聞きたくないというように顔を背けた。辰子は続ける。
「そしてこう思いたかったのでしょう。《弓島辰子が活躍できたのは自分のおかげだ。自分が未来を教えてやったからだ》って」
途中で透の口調を真似た。透は両手で耳を塞いだ。それでも身体中に響かせてやるような声を、辰子は腹の底から出した。
「君は役者としての自分を諦めて代わりに弓島辰子を持ち上げてやることで自尊心を守り虚栄心を満足させようとしたんだ」
呪文をかけるように、息継ぎなく一気に聞かせる。
透は机に突っ伏した。囁くほどの声で、「やめてください、やめてください」と呟いている。辰子は、しばらくその様子を見ていたが、「忍びない」と口走るように言って、すとんと腰をかけた。残っていたジュースを一息に飲み、それでも足りなかったのか、透のグラスにまで手を出して、あっと言う間に飲み乾してしまった。
「――でも、君、ある意味根性あるよ」
肩をびくりと震わせて、透はゆっくりと顔を上げた。力の抜けた、まるでたった今目覚めたかのような表情だった。
「何て言うか、お疲れ様、ね。これはこれで、おもしろい経験になればいいんだけど」
ねぇ、と透に念押しして、辰子は空になったグラスを自分の頬に当てた。
「冷たくて気持ちいいわよ」
そう言う辰子の声はすっかり穏やかに戻っていて、透はおそるおそる自分のグラスを頬に当てた。
「なかなかいいでしょう」
透は頬を水滴で濡らし、乱れていた息を整えるように呼吸を繰り返し、答えた。
「はい」
辰子はグラスを頬から離し、「ジュースのおかわり、飲む?」と尋ねた。
*
しかし透は、ジュースを所望しなかった。
「もうそろそろ、帰る時間なんです」
「そうなの。早いわね」
辰子は時計を確認した。透が来てから、まだ一時間も経っていなかった。透が頬を手で拭っているのを見て、辰子は同じようにした。
「短い時間だったけれど、これで良かった?」
「はい」
透は間髪入れずに答えた。辰子は「なら安心した」と応じた。
「君の時代に戻るときは、君はどうするの。どこかに機械があるの?」
「いいえ、こう、ぱっと消えて見えるらしいです。僕は訳がわからない内に移動しています」
「それはそれは。その瞬間は、見せてもらっていいのかしら」
「たぶん。びっくりすると思いますよ」
「驚くのはいい経験よ。私は、人を驚かせるのが仕事なんですからね」
そう言って辰子は目を細めた。透もはにかんだ。そう、辰子はここでやっと、透の楽しそうな顔を見られたのだった。
「そうだ、いいものを持ってきてあげる。君がポスターを見せてくれたから、そのお返し。私にとって大事なものだから、君にはあげられないんだけど」
「え、何ですか」
辰子は、スカートを履いているようにくるりと身を翻し、鏡の前にある化粧台の引き出しを開けた。赤色のファイルから、何かを一枚、丁寧に取り出した。そして、茶目っ気たっぷりに振り向いて、「じゃん」と透にそれを見せた。
大きめに刷られた写真だった。透はそれをじっと見て、「えっ!」と声を上げた。ぽかんと頭を叩かれたような表情で、辰子の方に目をやった。
辰子は、満面に笑みを浮かべていた。
その瞬間、透は前触れなく消えてしまった。ぼんやりと薄くなったり、足からなくなったりすることなく、ふっと、テレビのスイッチを切ったように消えた。さすがに辰子も面食らって、一歩たじろいでしまった。
それから、大きく深呼吸をして、辰子は辺りを見回した。透にジュースを入れたグラスはそのまま残っていた。なるほど、こうなるのか、と辰子は一人頷いた。
そして、手元の写真を眺める。
古い写真だった。背の高い男が、タキシードに身を包んでいた。恥ずかしげに顔をうつむけているが、表情は柔らかい。男と腕を組んでいる女、こちらは照れをおくびにも出していない。全身から幸せを立ち上らせている。女は、裾の広がったウエディングドレスを着ていた。
――弓島辰子の結婚ブロマイドだった。
辰子は、その写真を赤いファイルにそっと入れ直した。元のところにファイルをしまい、引き出しをことんと閉めた。
*
二年後、弓島辰子は連続ドラマの準主役級に抜擢され、広く注目を浴びた。
大女優と呼ばれながら夭逝した母親と同じ芸名を使い、また容姿も母親に瓜二つであったことから、話題先行の二世として批判を受けることもあった。
しかし、堅実に積み上げられた努力、また、したたかなまでの観察眼に裏打ちされた演技力によって、やがて弓島辰子は、その時代には母親よりも知られる、演技派の役者となった。
(2007.06.30)
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