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僕は弓島辰子に会いに行く 〈前〉
I go to meet Yumishima Tatsuko

 木々の間を声が通る。頼りなく散っていくようでもあるが、よく耳を澄ませばかすかに反響しているのがわかる。
 弓島辰子は、自分の腹に手を当てて、呼吸を確かめた。そして再び発声練習を始めた。ひとしきり周囲が張りのある声に覆われて、ぴたりと口を閉じればわずかな残響が沈む。辰子は、ふうと息をついた。
「弓島さん」
 辰子は驚いて振り向いた。すぐ後ろに少年が立っていた。辰子のいた場所は、遊歩道から少し山の奥に入ったところで、ほとんど人の来るところではなかった。
「弓島辰子さんですか?」
 そう言いながら、少年は手にした紙を広げた。片腕の長さくらいは幅があるだろう。それはポスターだった。辰子は、それをまじまじと見て、あっと叫んだ。
 そこには、家族愛を扱ったらしい映画の題と、《主演・弓島辰子》という文字が、ゴシック体で印刷されていた。写っている人物は、辰子とよく似ていた。しかし、今の辰子よりも一回りは年上に見えた。

          *

 辰子は少年をコテージに招き入れた。そのとき、自分が飾り気のないジャージ姿であることに気付いて苦笑した。少年の方は、Tシャツにジーンズという格好だった。
 麦茶とオレンジジュースとで問うと、少年はジュースを選んだ。それほど暑くはない日だったが、山道を歩いて疲れたのか、少年の額には汗がうっすら浮かんでいた。辰子は、自分の分と合わせて二杯のジュースを用意した。
 少年の前にグラスを置きながら、辰子は聞いた。
「君は、少し未来から来たと言うのね」
「はい」
 かしこまって座っていた少年は、そこで思い出したように「進藤透といいます」と名乗った。身体は大きくないが、高校生くらいだろう、と辰子は推測した。辰子も妙齢の女性であるから、見知らぬ人間を部屋に上げることは無防備でもあっただろうが、それよりも透という少年への興味が勝った。
「僕の時代では、弓島さんは大女優です。初めは舞台で活躍されましたが、後にテレビドラマに続けて出演され、名前を知られるようになります」
 透は興奮しているのか、ややどもり気味に話した。実力派とされる演出家や監督の名を挙げ、辰子が彼らに気に入られていたことを述べた。
「弓島さんは、一定の評価を得るまでに時間がかかりました。二〇歳前から小劇場で演じていらっしゃいましたが、目立った好評を得るところまではいかなかった。大変失礼ですが――弓島さんは現在、そのようなご状態ですよね」
 辰子は確かに、劇団に所属して五年目の、本人が思うところでは駆け出しの女優であったから、透の言葉を素直に肯定した。
「しかしそれは、僕の思うところでは、そして僕のいる時代の定まった評価によれば、弓島さんの演技があまりに先進的であったために、時代が追いつけなかったのです。しかも、弓島さんは時代を待っていられなかった。一人でずんずん先へ進んでしまった。それで、世間に知られるのが遅くなってしまったのです」
 先程示したポスターを見せ、この作品から評価が高まったのだと透は説明した。そのときの弓島辰子は、三十代半ばということだった。

          *

 透がきょろきょろと部屋の中を見回した。山の中にあるコテージで、一部屋にテーブルと簡易キッチン、ベッドが集まっている。目を引くのが化粧台で、そこには全身を悠々と映せる大きな鏡があった。
「どう、ここは。このコテージのことは、知っていたのよね」
「はい」
「思っていたより汚いでしょう」
「いえ。確かに、テレビで一度見たときは、テーブルも鏡ももっと新しかったように思います。ですからきっと、弓島さんが役者として成功されてから、きれいに改装するのですよ」
 大真面目に透が言うので、辰子はおかしくなってしまう。
「弓島辰子は、有名無実な役者だった?」
「いいえ!」
 透は言葉尻を食うように否定した。
「素晴らしい俳優でした。立ち居振る舞いから存在感があるのに、役に入ると《弓島辰子》を感じさせませんでした。生まれたときからその人だった人物が、そこにいるとしか思えないんです。どうしてあんな角度からリアリティを演出できるのか、きっと僕らとは違うところに視線が向いていたんでしょう」
「批評家みたいな、うまいことを言うのね」
 透は一瞬口をつくんだ。おやおや、と辰子は首を傾げた。本当に批評欄にでも書かれていたのと同じことを言ったのかもしれない、と推測した。
「独身時代から妻という役は多かったのですが、ご結婚後はさらに凄みが増したようでした。優しさも恐ろしさも、妻という女性のあらゆる部分を描き出していました」
「あら、私は結婚するの?」
「はい」
 ここで、透は急に悔しそうな様子を見せた。
「弓島さんの結婚式で撮られた写真が、ブロマイドとして限定で発売されたんですよ。その写真の弓島さんは、本当に美しいと噂になって、だから僕はそれが欲しくて徹夜して店に並んだんです。だけど、手に入れられなかった。あれは、本当に残念でした」
 つい辰子は微笑んでしまった。透が、ほとんど初めて、素の顔を見せたのではないかと思ったのだ。礼と無礼の混在する透の言葉も、辰子にはおもしろく感じられた。
「結婚したとき、私の年齢は、結構いっていたのでしょう」
「四十歳近かったと思います」
「お相手は?」
「言ってもいいんですか?」
「ええ。どうせ、演劇業界の人でしょうけれど」
「はい。演出家です。スマートな方ですよ」
 辰子が話に乗ってきたからか、透は軽快に返答をした。ここで辰子は、気になっていたことを聞いてみた。
「子供はできるのかしら」
「ええ。強く望まれていたようで、結婚三年目だったと思いますが、ご懐妊されました」
「でも、それだと、結構な高齢出産になるわね。大変だったんじゃないかしら」
 透は答えなかった。心なしか、瞬きが多くなる。
 辰子は、追い込むように尋ねた。
「弓島辰子は、君の時代に生きているの?」
 それまでになかった沈黙が下りた。透はテーブルの上を見つめたまま微動だにしない。外でカラスの鳴く声が、よく聞こえた。それでも森は静かだった。
「弓島辰子は――」
 努めて冷静に、辰子は言った。
「死んだのね」
 透は、首を落とすように辰子の言葉を肯定した。
「そのことを話してみて」
「でも」
「いいから」
「――出産で、ずいぶん無理をなさったようです。お子さんは無事だったそうですが、弓島さんは起き上がれなくなってしまいました。体力があるからと楽観視する向きもありましたが、結局舞台に戻ることなく亡くなられました。非常に惜しまれましたし、告別式は盛大なものでした」
 芝居のト書きを読むように、透は言った。その間、視線は一度も上げなかった。部屋の中が、少し冷えたようだった。
(2007.06.30)

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