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輪の必要 〈後〉
The Necessity for Rings
輪を探す彼女が来たのは、一回目も二回目も木曜日だった。それはつまり僕の仕事が入っている曜日に重なるわけだ。ただ、もう来ないかもしれないという予想もできた。何せ、先週彼女は風呂敷を買って帰ったのだから。
だから加住さんは「おびき寄せ作戦ね」と言って、店の外に問題の輪を展示した。「砂糖に蟻が寄るのとは違うんですよ」とうっかり口を挟んだら、「もうその子を残念がらせたくないでしょう」と睨まれた。この点に関しては、彼女にも加住さんにも頭を下げるしかない。
レジに立ちながら、店の前をちらちら見ていた。加住さんに「集中力に欠けてるんじゃない?」と指摘されて姿勢を正したが、表のガラス窓に人の頭が映るとつい身を乗り出してしまう。今まで、手前味噌ながら自分は真面目な性質だと思っていたが、どうも職務には誠実でないらしい。
果たして彼女は来てくれた。表でぴたりと立ち止まった頭がはっきり見えた。彼女が戸惑ったようにきょろきょろしながら店に入ってくるので、僕は真っ先に挨拶をしようとした。ところが、その役目は加住さんに取られてしまった。
「いらっしゃいませ」
僕の反応を見て、彼女こそ件の女の子だと察したのだろう、加住さんは押し付けがましくない程度に微笑んで彼女を迎えた。
「先日は、ご所望の商品を扱っておりませんで、たいへん失礼いたしました」
彼女は不安げに僕の方を見た。他にも客は店にいるのに、明らかに店長とわかる迫力ある女性が自分に迫ってくるので、焦ったのだろう。加住さんと彼女は今日まで会っていないはずだ。だとしたら、彼女にとってこの場で唯一の知り合いが僕ということになる。
こういうとき、僕はどうすれば良かったのか。わからない。大丈夫だ、という気持ちを込めて頷いてみたが、伝わった自信はない。
「今週から、輪を揃えさせていただきました」
「あの、店頭で、見ました」
「ありがとうございます。お気に召したものはございましたか」
「いえ、まだ……」
「では、こちらでもご案内しております。よろしければご覧ください」
彼女は加住さんに招かれるようにレジの前に来た。
「先日は風呂敷をご購入いただき、ありがとうございます。どのような色柄でしたか、お伺いしてよろしいでしょうか」
「え、ああ」
まくし立てる加住さんに圧されて、彼女は口ごもる。僕は見かねて口を出した。
「水色でしたよ」
加住さんは、ほう、と言うように僕に一瞥をくれた。
「淡い、きれいな水色でした。それに、赤色の金魚が」
「あ、はい、そうです」
彼女が肯定したので、加住さんは紙袋から何種類もの輪を取り出した。透明なものが多く、そこに色が交じっているものもある。大きさも三種類ほどあるようだ。
「風呂敷のサイズはどれでしたか」
「えっと、一番大きな」
「では、輪のサイズはこちらがよろしいでしょう。お色は、そうですね、クリアのものか、こちらの茶が入ったものなどいかがでしょう」
彼女は、加住さんに勧められた内、透明な方の輪を握った。持つのにちょうどいいか確かめたのだろう。そして、これに風呂敷を結び付けたときのことを想像しているのだろう。
――先日、輪を見て驚く僕に、加住さんが教えてくれていた。
「いちごバッグって、知っている?」
僕は首を横に振る。
「さっき、風呂敷の端と端を結んでバッグを作ったでしょう。これを結ぶときに、輪をつけるの」
加住さんは実際にやってみてくれた。風呂敷の端を、輪にくるりと巻いてから結ぶ。輪をもう一つ用意して、残った端も。すると、持ち手のついたバッグになる。元が風呂敷とは思えない。生まれたときからバッグだったようだ。
「いいでしょう。風呂敷だけで作るより、洒落ている。それに、この輪が一組あれば、いろいろな風呂敷でバッグが作れるのよ。例えば、そう、これから花火大会があるでしょう。浴衣に合わせるのに、とても良いと思うわ」
ただ感心する僕に、加住さんはぴしりと言った。
「やっぱり君は、少し流行を勉強する必要があるね」
これから励みます、と言うしかなかった。
だから今、加住さんが僕の前で彼女に輪を紹介しているのも、その勉強の一つなのだろう。
「これがいいです」
彼女は、透明な輪を選んだ。その選択は意外に早かった。もっと悩むかと僕は思っていたのだ。
たぶん、彼女は何度もシミュレートしていたのだろう。どの風呂敷を買って、どんな輪をつけて、どんなバッグを作るか。ずっと楽しみにしていたのだろう。僕はそれを遅らせた。何だか改めて申し訳なくなる。
結局、最後まで加住さんが彼女に構った。レジまで加住さんがさっさと打ってしまった。僕はずっと蚊帳の外で、最後の挨拶、「ありがとうございました」とだけは、はっきり伝えた。あまり大きな声だったからか、彼女はびっくりして僕の方に頭を下げた。彼女は少しはにかんでいた。僕も思わず笑み返した。
彼女が出て行ってから、加住さんが僕に話しかけてきた。
「彼女、ちょっと人見知りの気がありそうね」
「加住さんがぐいぐい前に出るからですよ」
「だからいいんじゃない」
加住さんはちょっと歯を出してにやりとした。僕には訳がわからない。
「吊り橋効果みたいなものね。まあ彼女と君は二回話していたわけだからさ、あたしみたいな怖い女を前にしたら、君のことは頼れるように思えたんじゃないかな。得点稼げたよ、君」
ぽかん、だ。呆れてしまった。
「相当下世話ですよ、それ」
「君も案外口が悪いね」
加住さんは「頑張りたまえ」などと言って店の奥に入ってしまった。取り残された僕は、否応なしに彼女のことを考えることになる。そう、これは否応なしなのだ。
彼女はまた店に来てくれるだろうか。加住さんが新しい風呂敷の入荷日を教えていた。そのときに来てくれるかもしれない。それは僕の勤務日だろうか。まあ、だったらどうこうということはない。
でも、もし今度会えたら、名前くらい聞いてもいいだろう。
客が会計にやってきた。僕は頭の中まで勤勉な店員に戻ってその応対を始めた。
ここまでの原稿を、部室で徹夜して書き上げた。よし、と思って仮眠を取り、目が覚めると講義の始まる寸前だった。転がるようにして出席に間に合わせ、半ば眠りながら授業を受け、やれやれと部室に戻ると大江さんが原稿を読んでいた。
もうそのまま三階にある部室の窓から飛び降りてしまおうかと思った。穴があったら入って上から土をかぶせてもらいたい。先輩の手から原稿を奪い取って千々にちぎってライターで火をつけて燃やして足で踏みつけて「今のは無しですよ」とおどけたかった。もちろんそんなことはできない。部室に置いておいた原稿は、誰に読まれても文句は言えない。たとえ大江さんのことを「酒癖が悪い」などと書いている原稿であっても。
大江さんは最後の一枚を淡々と読み終えた。原稿を丁寧にそろえ、机の上に戻すと、僕の方を見て「読んだ」とだけ言った。そのまま部室をふらりと出ていってしまった。僕はほっとしていいのか、まだわからなかった。
その夜が飲み会だった。酒を飲んだ大江さんに何を言われるかと、僕は身を縮めて覚悟していた。酒も食べ物も、ちっとも喉を通らなかった。
結果から言うと、大江さんは僕の原稿について、怒ったりからかったりはしなかった。ただ一点、「俺は『莫迦にしたんだろ』なんて言っとらん」というところだけは厳重に抗議された。
もちろん僕も今となっては、あのとき大江さんが何と言ったのかはわかっている。僕の聞き違いだった。しかしそれを認めるのも何だか悔しい。いろいろな意味で悔しい。
それでも、「追記しておきます」と返事した手前、仕方がない。この一行で、改めて原稿を閉じようと思う。大江さんは、本当はこう言ったのだ。
――「カバンにしたいんだろ」。
(2007.07.15)
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