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輪の必要 〈前〉
The Necessity for Rings
「輪を……」
「え?」
そう聞き返してしまい、慌てて「何をお探しですか」と言い直した。若い女の子だった。緊張しているのか、僕に目を合わせたりそらしたりしている。
彼女は何と言ったのだろう。状況が許せば、「ワオ」と小さく感嘆したのだと解釈するところだ。しかし、どうもそうではないらしい。
「輪を探しているのですけれど、ありますか」
小さな雑貨屋で週に何度か、一日に三時間ほど働くことになり、まだ二日目である。レジスターの担当になったが、まだ慣れていない。ましてや商品の配置に関してはほとんど門外漢である。またそのとき、店に出ていたのは僕だけだった。しかし彼女の要求に対しての戸惑いは、その意味がわからないというところにあった。
「輪ですか。それは、どのような?」
「まるい……」
まるくない輪があるものか、と普段の僕なら言うかもしれないが、今は商売である。それに彼女は、生来おとなしい性質であるのだろう、ぼそぼそとかすれかけた声で喋る。黙って言葉の続きを待った。
「子供のする、おもちゃの腕輪のようなものです。大きさは、このくらいで」
彼女は両手の親指同士、人差し指同士をくっつけて輪を作って見せた。子供ならむしろ首輪になるのではないかと思った。
「すると、プラスチックのようなものですか」
「はい、軽くて」
わかるような、わからないような。そんな輪がこの雑貨屋にあるのは見たことがない。今は《日本の夏、風呂敷・手ぬぐいセール》の期間中で、店に来るのはもう少し年のいった女性が多い。彼女のような、僕と同年代の女の子は珍しかった。
客の一人が、商品を手に僕の方を見ているのに気付いた。会計を待っているのだ。僕は思い切って彼女にこう言ってしまった。
「申し訳ありませんが、当店ではそのような輪は取り扱っておりません」
すると、彼女は悲しげに目を細めた。表情の変化があまりに明らかだったので、僕はたじろいでしまった。
「じゃあ、また来ます」
落胆の色を顔に落とし、彼女はそう言って、逃げるようにレジスターを離れた。あっ、と呼び止めかけたが、客がこちらに向かってきたので諦めた。
また来ると言っても、そのときになって彼女の言う輪が店に入っているかはわからない。せめて何に使うのかくらい聞けば良かった、と思った。彼女がレジにいては、他の客の相手ができない。そう考えれば、要領を得がたい話にずっと付き合っているわけにはいかなかったのだが、しかし追い出したようで気分が良くない。彼女のやや潤んだ眼が頭に焼きついた。僕は彼女が目的のものを手に入れられることを願った。
毎週末の飲み会は狭い部室で行われる。
何の因果か、僕の隣には必ず大江さんが座る。先輩達がそのように仕組んでいる節がある。大江さんは、普段は寡黙でじっと本を読んでいるような人なのだが、何せ酒癖が悪い。もう飲み会に出るのをやめてしまおうかとも考えるが、僕は一年生の幹事になっているのでなかなか抜けられない。前門の虎後門の狼だ。
大江さんが常日頃から持ち歩いている杯をくいくいと傾ける横で、僕は甘い酒を少しずつなめていた。近年の某有名文学賞における選考基準についての論をとうとうと語る大江さんの話を聞き流す。
僕が生返事しかしなかったせいか、大江さんは肩を怒らせて、「お前は何か話はないんか」と絡んできた。こうなると逃げられない。しかし、下手な私見を述べても大江さんには論破されるばかりでおもしろくない。
そこで、輪を探しに来た彼女の話をしてみることにした。あれから、彼女はまだ来店していなかった。酒の席であるし、捉えどころのないような話で十分だろうと思ったのだ。僕が雑貨屋でアルバイトを始めたことは言っていなかったので、その店についても喋った。まあ、仮に大江さんが店を覗きに来たところで、素面ならば何の問題もない。もっとも、酒の入っていない大江さんは、そんなちょっかいをかけてくる人ではなかった。
周りが騒がしいので、大きな声を出さなければならない。喋り終ったときには、頭がくらくらした。それでもって、「女の子は輪を何に使うんでしょうね」と大江さんに尋ねてみた。
大江さんは、やや呂律の回らない口調で答えた。ちょうど向かいの席で、どう盛り上がったのか大きな笑いが起こったので、なおさら聞き取りにくい。しかし、どうも「莫迦にしたんだろ」と言ったようである。
そんなことないでしょう、と口をとがらせかかったが、大江さんは何々屋という呼称の問題点について演説を始めてしまった。僕は憮然としたまま、その日の飲み会を過ごした。
《日本の夏、風呂敷・手ぬぐいセール》は続いている。風呂敷というと、僕なんかは物をくるくる巻いて結ぶ、というくらいのイメージしか思い浮かばなかったのだが、その包み方にもいろいろあるようである。大き目の風呂敷を広げ、隣り合った端と端とを結び、残った二つの端同士も結ぶ。これだけでちょっとしたバッグになる。びっくりした。
「君もこういうことを覚えておくと便利よ」
あっという間にできた風呂敷バッグを肩にかけて、カスミさんは僕に言った。女性ではあるけれど下の名前ではなくて、名字で加住さんという。恐れ多くも店長さんだ。中学生くらいの娘さんがときどき手伝いに来る以外は、僕のようなアルバイトを雇って店を切り盛りしている。
「僕はいいですよ、そんな、使う機会もないでしょうし」
「お客さんに教えてあげればいいのよ。女の子にも、あら素敵、なんて思われるかもしれないし」
大きなお世話だ。実際、商品選びの助言は、僕より前からここで働いている女子学生が積極的に行っていたので、僕はレジ打ちに集中すれば良かった。
加住さんは店の奥で、展示する見本品の製作に励むらしい。僕はレジに付き、もう一人のアルバイトは食器を物色する客に付き合っている。
そこに、輪を探す彼女が来てしまった。
しまった、と思った。何て間の悪い子なんだろう。僕は輪のことを加住さんなどに尋ねていなかった。彼女を帰したのが自分の失敗のようで、言い出しにくかったのだ。
どうしようかと思っていると、彼女はセール中の風呂敷を手に取って眺め出した。拍子抜けしてしまう。今日は別の目的で来たのだろうか、輪はもう手に入ったのだろうか。五分ほどゆっくり悩んだ末、彼女は一枚の風呂敷を手にレジへと向かってきた。前と同じ店員だ、ということは彼女も気付いたらしい。僕は会釈した。
「輪は……」
今度は僕から切り出した。彼女は話しかけられたことに戸惑ったような表情を見せたが、消え入るような声で応じた。
「ないんですね」
小さな声は、彼女の地でもあるのだろうが、やはり残念がっているようだ。申し訳なく思うが、しかしないものはないのだ。
彼女は「これを、お願いします」と言いながら風呂敷を差し出した。大判のもので、淡い水色の染めに赤がぽつりぽつりと咲いていた。よく見ると、それは金魚の柄だった。僕はとっさに、いいな、と思った。加住さんに聞かれたら「らしくない」と言われるだろう。しかし僕はそう思ったのだ。
会計をして、店の名前が入った袋にたたんだ風呂敷を詰めて、彼女に手渡した。彼女は、おずおずと頭を下げて帰っていった。
彼女は輪を手に入れていなかった。僕もそれを残念に思った。しかしどこでなら手に入るものなのだろう。彼女は確か、子供のするおもちゃの腕輪のようなもの、と言っていた。だったらおもちゃ屋にあるか。むしろ駄菓子屋にありそうな気もする。いずれにせよ、僕には心当たりはなかった。
食器をあれこれ眺めていた客は、結局何も買わずに帰っていった。付き合っていたアルバイトは、「たぶん、ただお話をしたい人なのね」と呟いた。ここで、僕の勤務時間がちょうど終わった。レジを引き継ぎ、加住さんに帰宅を告げようと、事務所を兼ねた奥の部屋に行ってドアをノックした。
「どうぞ」と返事があったので入った。加住さんは本を何冊か広げて、いろいろに風呂敷を結んだり手ぬぐいを縫い合わせたりしていた。色とりどりの布に囲まれた加住さんに、僕は「お疲れ様でした」と言って帰ろうとした。
そのとき、僕は「あっ」と叫んだ。加住さんが不思議そうに僕を見る。その傍らにあったのは、まさに彼女の言っていたような、プラスチックの輪だったのだ。
(2007.07.14)
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