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ハチミツ甘いかしょっぱいか
Honey, is it sweet or salty?

 日曜日の午後というのは、何となく落ち着かない時間です。休みではあるけれど、その終わりはもう手の届きそうなところに来ていて、どうにも追い立てられているような気分になります。
「何、頼んだの」
「アボカドとベーコンのサンド」
 萌子さんと淳美さんは、空き出したコーヒーショップに入っていました。
「それと、ミルクココア」
「おいしそう」
「萌子は」
「ハニートーストと、アメリカン」
 窓際のテーブルが空いていました。二人がけの席に、向かい合って座ります。
「アボカドのって、新製品?」
「そう。春期限定」
「一口食べさせて」
「いいよ」
 淳美さんは、自分のサンドイッチを一口分ちぎりました。萌子さんがにこにこと、それを頬張ります。
「おいしい。ありがとう」
「どういたしまして」
 おどけて返事をしながら、淳美さんはココアを飲みます。
「先生は、元気?」
「ええ、とてもお元気。この前、学会に連れていっていただいたわ」
「そんな話、聞いてないよ」
「ごめん、ごめん。でも、淳美の方が忙しかったでしょう」
「こっちは慣れていない忙しさだから。言われるままに、右往左往」
 淳美さんは、温かいカップを頬に当てて、ため息をつきました。淳美さんは、この四月から出版関係の会社で事務をしています。萌子さんの方は、そのまま大学院に進み、中世文学の研究を続けていました。
「あ」
「どうしたの」
「ごめん、ナプキンとってくれる」
 萌子さんが、口元を手で押さえていました。
「ハチミツ付いたんだ」
「うん」
 淳美さんが紙ナプキンを数枚まとめて渡すと、萌子さんはまず一枚で口元を押さえました。二枚目で小さく拭い、残ったナプキンで汚れた二枚を包みました。その様子を、淳美さんがじっと見ています。
「何、見てるの」
「萌子ね、何か、艶っぽい」
「艶っぽいって」
 萌子さんは歯をこぼして笑いましたが、淳美さんは視線を外しません。
「いやいや、やはり若奥様は違うね」
「からかわないで」
「はは、今さらだったか」
「淳美だって、桂君とどうなの」
「うーん、それはなかなか厳しい質問だよ」
「そう?」
 桂君というのは、淳美さんが大学を卒業する少し前から付き合い始めた恋人です。研修期間中の桂君とは、遠距離恋愛をしています。
「桂君と、喧嘩でもしたの」
「いいや。しかしね、刺激が足りないよ」
「ちゃんと会っているんでしょう」
「この前、一ヶ月振りにね。もっと頻繁に来てくれてもいいのにさ」
「淳美の方から行きなさいよ」
「新幹線は高いんだ」
 話の切れ目で、二人はそれぞれの食事をとりました。萌子さんはナイフもフォークも使いません。トーストの耳を持って、そのままかじりつきます。溶けたバターとハチミツが、上唇を光らせます。
「刺激、刺激、刺激」
 ココアをかき混ぜるためのスプーンで、淳美さんはサンドイッチをつっつきます。呪文のように抑揚をつけて、同じ言葉をくり返しています。
「刺激、刺激、刺激、刺激」
「そんなに刺激が欲しいの。会社で十分なんじゃないの」
「最初からそんなに楽しいことないわよ」
「そうか、桂君からの刺激でないと嫌なんだ」
「そういうこと」
 あっさりと答えて、淳美さんはぐっとココアのカップを傾けます。
「刺激、刺激、刺激。そうなのよ。もっとエロチカが必要よ」
「まあ」
 萌子さんは、わざとらしく裏返った声を上げました。二つ離れた席では、高校生らしい男の子達が、バーガーにかぶりついています。
「エロチカ、エロチカ。私達、もっと刺激的な関係になっていいはずよ」
「私達って、誰のこと」
 今度は自分で紙ナプキンをとり、萌子さんは唇を拭います。
「凄いことを言い出すなぁ。私と桂君だよ。萌子は萌子でうまくやってるんだろう」
 萌子さんは微笑んで、トーストをぱくつくばかりです。
「障害ばかりある気がするんだよ。新幹線の値段、会うという意志、手紙を書く労力」
「淳美、手紙書くんだ」
「書くよ。なのに、あいつは返事を寄越さないんだ」
「桂君、忙しいのよ」
「私だって忙しいさ」
「でも、お肌なんかつるつるよ、淳美」
 萌子さんが、アメリカンコーヒーに初めて口をつけました。
「いい化粧品使ってるからさ。これがまた高いんだ」
「へえ」
「食べられる野菜で作っているんだって」
「食べられる野菜?」
「口に入れても大丈夫な原料ってこと。肌への刺激が少ないんだって。ああ、刺激!」
 淳美さんは、ぐっと背もたれに寄りかかりました。もう椅子が折れそうです。
「エロチカ、エロチカ。私達がパンをかじってコーヒーを飲むこの唇を、男はもっと求めてもいいんだわ」
「唇でパンはかじらないわ」
「萌子」
「ふふ、だってそうだもの」
「あんたねぇ、そんな細かいことを言っていたら」
 淳美さんは、全部を言い終える前に、いったん口をつぐみました。
「ねえ、萌子」
「なあに」
「子供は作らないの」
「まあ」
 萌子さんは大きな目をくりくりと開きました。
「今は、刺激の話をしていたんじゃないの」
「子供ができるだなんて、すごい刺激だと思うんだけど」
「それはエロチカかしら?」
「エロチカよ。いっそ、究極的なエロチカと言ってもいいわ」
 近くにいた男の子達が席を立ちました。二人の話を耳に挟んで、気まずく思ったせいかはわかりません。
「エロス、エロチカ、エロチック。声に出してみなさいよ。舌の動きはどうなっている?」
「いやらしいわ」
「そう思ってくれる?」
「ねえ、ここは、エロチカの話をするのにふさわしくないと思うの」
「周りに遠慮することはないでしょう」
「周りはともかくとして、こんなに小ぎれいなコーヒーショップで話すことかしら?」
 それを聞いて、淳美さんはびっくりしたように周囲を見回しました。そして、お釈迦様のように笑顔になりました。
「それは、とてももっともだね」
「そうでしょう」
 萌子さんは嬉しそうにコーヒーを一口飲みます。
「コーヒーショップは良くないわ」
「萌子は、どこが良いと思うの」
「ラーメン屋さんなんて、どう」
「悪くないね」
 淳美さんは、おしゃれなコーヒーショップで目を閉じて、近所のラーメン屋さんの店内を思い浮かべました。
「うん、実際悪くない。脂でぎとぎとしちゃった壁なんか、存外に合うかもしれないわ」
「でしょう、でしょう。黄ばんだメニューの紙なんかもいいと思うの」
「エロチカだわ。でも合い過ぎて合わない気もするな。ねえ、とぼけないで。萌子が子供を作るかどうか聞いていたのよ」
「やだ、思い出したのね」
「忘れてないわよ」
「珍しく下世話なことを聞くのね」
「下世話かもしれないけれど、私の聞きたいのはエロチカの話なんだよ」
「私のエロチカ?」
「萌子のエロチカ」
「めくるめく雑談、曲がりくねる文脈」
「何を言っているの、ごまかすつもり?」
「そういうものも、エロチカだと思わない?」
「だとしても、私は萌子のことが聞きたいの」
「やっぱり下世話だと思うの」
「いいから」
 ハチミツトーストの最後の一口を、萌子さんは大事そうにお皿に残しています。
「私達は、ずっとプラトニックな関係だから」
「冗談でしょう」
 萌子さんは、十九歳のときに結婚しました。もちろん、今の旦那さんとです。淳美さんは、萌子さんが恋愛をしていただなんて、少しも知りませんでした。
「淳美は、エロチカの話を聞きたいんでしょう」
「そうだよ」
「プラトニックは、エロチカではないかしら」
「プラトニック・ラヴ?」
「ラヴを含めて」
「ふーん、どうだろうね。わからなくなってきたよ」
「本当は、初めからわかっていないでしょう」
「ばれたか」
 淳美さんは、お皿にこぼれたアボカドを指でつまみ、口に放り込みました。そして、ココアを一息に飲み干します。
「わかっていなくていいんだよ。ただエロチカの話をしたかったんだ」
「エロチカというものの?」
「エロチカな話を」
「舌の動きなんて、考えなくてもいいわ」
 萌子さんは、最後の一口に手をつけません。
「そのトーストを、どうするの」
「私、さっき淳美から一口もらったもの」
「律儀だなぁ」
「欠けたところは埋めたくなるじゃない」
「欠けたなんて思わなくていいんだよ。こういうものとして納得すればいいんだ」
「エロチカも?」
「エロチカも、たぶん」
 萌子さんの残した一口分のトーストには、ハチミツがたっぷりのっています。そうなるように、萌子さんが食べたのでした。パンの耳はもうありません。てらてらと光るハチミツだけが、お皿の上にぽつりと残っているようです。
「それ食べたら、出ようか」
「そうね。もう食べちゃってもいい?」
「いいよ」
「エロチカの話は?」
「まず、食べるといいよ」
 淳美さんは、そこでにっこり笑いました。まるで焼きたてのトーストのようでした。
 萌子さんは、一つまみのハニートーストに手をつけました。口に入れるとき、真っ赤な舌の先が、少しだけ顔を出しました。萌子さんは、指先についたハチミツをぺろりと舐めとりました。
「おいしかった」
「良かったね」
「また来ましょう」
「うん、きっと予定合わせるよ」
 萌子さんは、紙ナプキンで指を拭きました。淳美さんは、財布の中身を確認しています。
「折半でいい?」
「うん」
「私、ちょうどあるみたいだ」
「だったら、まとめて払わせて」
 萌子さんと淳美さんは、自分のお盆を持って立ち上がりました。コーヒーショップは、セルフサービスなのです。
 日曜日の午後のことでした。
(2007.05.24)

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