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男が笑ってる
A man is laughing
彼が車を降りていった。
待って、と叫ぶ。彼は振り返らない。私との距離が、だんだん開いていく。
もしかしたら、声が出ていないのだろうか。焦りばかりが喉を押し潰す。唇が乾き続ける。
助手席から、彼の背中が遠ざかっていくのを見る。彼の着るセーターの背には、ライオンの刺繍が施されているはずだ。さっきまでは、その凹凸に指で触れられた。今は、ライオンの表情も見えない。
そういえば、フロントガラスが曇っている。もっとよく磨くべきだった。そう、彼に言うだけでなく、私がやれば良かったのだ。悔やむことばかりが渦巻く。
そのとき、こんこん、と横の窓がノックされた。私はぼんやりとドアを開ける。
知らない男が立っていた。くるぶしまで隠すような、紺のコートを身に付けている。細身で、背が高い。厳密に分けられたのであろう髪が、きっちりとなでつけられていた。
「刑事なんです」
男は黒い手帳を私に示した。私は無意味に頷く。
「失礼します」
男は助手席に乗り込んできた。私は腰を上げ、急いで運転席に移動する。
運転席。さっきまで彼が座っていた席。
私は、男に構わず、彼の背中を見続ける。男も、私の視線に自分の視線を平行させて、前を見ているようだ。
「ずいぶん冷えてきましたね。雪が降ってきた」
そうか、雪のせいでガラスの向こうが見えにくかったのだ。きっとそうだ。
周りの白くもやもやとしたものが、皆、雪のせいに思えてくる。
「ここで、寒さをしのいでいたのでしょう」
寒かった。ずっと寒かった。
エアコンはないの? そう、ないの。それでも構わない。私には、十分だよ。
「これは、誰の車?」
誰の車? 彼の? 私の? フロントガラスを磨くのは誰?
「車の持ち主は、この車を取り戻しに来るかな」
彼の車ならいい、彼の車なら。それとも、私の車?
「君が盗んだの?」
そうです、私が盗みました。そういうことにしてください。だって、そうしたら彼は、私のところに帰ってくるでしょう。もしかしたら、車のところに。そんなの、どっちだっていいから。
フロントガラスのずっと向こうで、彼がこちらを振り返った。
もちろん、見えるわけがない。辺りは白い。何もかもがぼやけている。ただ、私はそれを信じた。
彼が、私の隣にいる男を見た、と思った。
あっ、と息を呑む。
違う、違う。この人は刑事さんなの。だから仕方がないんだよ。どうか誤解しないで。私の隣にいてほしいのは、この人ではなくて。
彼は再び踵を返した。背中のライオンが、私を見たような気がした。
お願い、聞いて。だって刑事さんが。
私の声が、彼に刺さることはない。
しかし、私の耳は確かに働いていた。
高らかな声が、私の鼓膜を震わせた。髪が逆立つ。その振動に、私はまるごとひっくり返りそうになる。
ああ、男が笑ってる。
――どっちの男?
※日本文学館超短編小説賞2006 12月期審査員推薦賞(2006.12.29)
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