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酔 02
a story of a drunk who is sobbing -2-
えっと、そう……笑い梅のことは、まあ、何となく収まっちゃった。他にあと二人ほど、アンチ笑い梅派が出てきたくらいかな。別に、論争したくて持ち出した話題じゃないしね。
で、その頃からかな、あの人からメールが届いたの。あたし、掲示板でアドレス公開してたから。無防備でしょう、ネットでアドレスさらすなんて。でもね、聞いてよ、これ聞いて、何にもなかったの。あの人以前には、誰もメール送ってこないし、ウイルスもスパムも一切なし。いっそすがすがしいくらいよ。腹ただしかったわ。すがすがしいのに腹ただしいって、あたし、初めての経験。人は無視される生き物なのね。孤独に耐えろ!
あの人はねぇ、すっごく紳士的な文章で、自分の好きな日本酒について語っていたの。文が人を表すとしたら、あの人はあしながおじさんだと思ったわ。東京タワーをひとまたぎよ。ごめん、これ、最悪の喩えだわ。調子が悪いの、頭の調子がね。
うん? あ、そうね、あたしも、「朝舞鶴」や「透海」のことを書いて返信したの。そうしたらあの人、「透海の可能性にはおもしろさを感じています」って……あたしとの思いとそっくり同じことを言ってくれたの。まったく同じではないかな。少なくとも、コンビニに並んでるペットボトル程度には似ていたわ。
あれ、この喩えもひどいな。やっぱり酔っているのかしらん。回ってないのね、頭も舌も。呂律って言うの? それよ。地球はね、あたしの呂律が回しているの。あたしの呂律が回らないと、地球も回らない。ああ、明けない夜がやってきたのだ! 人々よ、方舟を待つことはない、朝は南半球で待っている! ……ねぇ、あたし、本当に選挙に出たほうがいいんじゃないかしら?
一ヶ月くらい、メールを続けたんだったかな……。日本酒にはやっぱりスルメイカですね、っていう話で一週間もったわ。スルメイカって、どことなく愉快よね。ん、あたし、さっきもスルメイカの話をしたんだっけ。スルメイカって、下から読むとカイメルスでしょう。あたしがアイスホッケーのチームを作るなら、チーム名は断然カイメルスよ。断然もつけてね、断然カイメルス。そういえば、カルメ焼きっておいしいのかしら。カルメラ焼きって呼ぶ人もいるのよね。きっと、どっちが正しいかなんて些細なことには、カルメ焼きもカルメラ焼きもとらわれていないでしょうけど。名前より存在よ。
――惚れ込んだの。
スルメイカのことじゃないわよ。そりゃあ、スルメイカにも惚れ込んではいるんだけど、ちょっとね、愛するには乾きすぎてるわ。ううん、スルメイカを愛していないわけじゃないのよ。どこかでこっそり聞いていないでしょうね、スルメイカが。この話を聞いたからって、あたしを見捨てないでよ。
あのね、惚れ込んだっていうのは、あの人のこと。本当に、言葉の一つ一つが素敵。そう、あの人がスルメイカと比べて勝っているところは、言葉よ。あとは、水分の含有量かな。スルメイカは、確かに詩的ではあるんだけど、惜しいかな、それをあたしの耳元で囁いてはくれないの。もしもスルメイカが甘い声と言葉を持っていたら、あたしは究極の選択に迫られていたわ。あの人とスルメイカ、さあ、どっちを選ぶ。
とにかく、あの人の言葉に参っちゃったのよ、あたし。参っちゃった、ってレトロな言い回しかしら。アンティークなのね。アンティークって、お菓子の名前だと思っていたの、ずっと。ウエハースの類かな、って。これ、初めて口にした秘密よ。内緒ね。
あたしは、まあ、やっぱり人並みにね、きれいな顔の男性にはどきりとさせられるわけよ。あえて、あえてね、容姿の好みを言うなら、うん、目力の強い人かな……。やだ、ちょっと、柄じゃない。これ、忘れてね。やっぱり、見た目よりも言葉が大切。思考と知性を表す言葉よ。だから、メールだけで惚れちゃったんだけど……。
ここは自惚れて、でも自信を持って言わせてもらうけど、あの人もあたしに好意を持っている素振りはあったのよ。本当。根拠を示すことはできないけれど、でも、こういうのって根拠で構築されているものじゃないでしょう。あたしは、そうだとわかったの。ああ、もう、どう言っても戯言にしか聞こえないんでしょうね。表現力も語彙も足りないのよ、あたしには。最近まで疑心暗鬼のことを自信暗鬼だと思っていたの。ちょっと、あたしったら、さっきからどうして変な秘密ばかり暴露するのよ。これって、自分以外の人にとってはまったく必要ない情報よね。鉛筆の後ろについてる消しゴムよりも必要ない。あれ、使っちゃうと自分に腹が立ってくるのよ。不合理だわ。
一度会いたいですね、ってあの人が言ったの。だからあたし、会いましょう、って返した。あたしがどの辺りに住んでいるか教えたら、電車で二駅ほど離れたところを指定して、「駅前に洒落たフレンチレストランがありますから、そこで夕飯をご一緒しましょう。その後、日本酒のおいしいところにご案内します」だって。
もう、何て言うか、絵に描いたようよね。どうなの、このプランって一般的に見ても素敵なのかしら? あたし、自分があんまりノーマルじゃないことは自覚しているつもり。してないかな……。とにかく、彼の提案はあたしの好みにかなり近かったのよ。フレンチって言葉が気に入らないだけ。あの人と日本酒が飲めるだけでも十分なくらい。
あたし、こういう、その……言っちゃおうかな、デートって初めてだったのよ。しかも、メールはかなりやり取りしたけど、初めて会う人でしょう。とにかく、一番いい格好をしていこうと思ったの。ただね、あたしの趣味は、日本酒もそうだけど、服に関しても結構マイナーだと思う。迷ったんだけど、でも、あの人はきっとあたしの格好も認めてくれる、と信じて、自分が最高にかわいいと思う服を選んだの。普段はジーンズにTシャツで過ごしてるんだけど、本当はかわいらしいファッションが好き。外にはまず着ていかないけど、家にいるとき、一人で着てみたり……うわ、これって引かれるかな。ううん、乙女心よね。乙女心の反対って何かしら。老婆心? まさか。少年の心かな……今一つ。
約束の日、つまり今日なんだけど、あたしは張り切って出かけたわけ。でも、何かね、周りからの視線を感じるの。単なる自意識過剰だったかしれないんだけど、やっちゃったかな、って思って。やっぱり服のセンスが駄目だったのかも、あたしには似合わないのかも、あるいは化粧が下手なのかも、ひょっとしたら背中に変な貼り紙でもくっついているのかも、なんて。心配し始めるとね、かも、かもになっちゃうのよ、何でも。今日の夕飯は鴨鍋? そうかも! ああ、最低……。
もうこうなったら、あの人を信じるしかないのよ。あたし、最も悲壮な覚悟でフレンチレストランに入った人のナンバー・ワンを更新できたと思うわ。オレンジ系統の照明で、本当におしゃれなお店。ウェイターさんにあの人の名前を言ったら、席に案内された。ウェイターさんは私の見た目に関して無反応だったけど、これは何の意味もないわよね。だって、仕事中に個人的な感情を持ち出したらいけないでしょう。まあ、そういうプロフェッショナルな精神は気持ち良かったし、このお店を選んだあの人の印象も右肩上がり。もともとかなり上がっていたから、まあそんなに急角度ではなかったわね。これ、全部終わってからの冷静な感想。ああ、わかってるでしょ、全部終わってるの。
あ、そうそう、何だか自分の心配ばかりしているような言い方してるでしょ、あたし、あの人についてはほとんど不安はなかったな。これは、今思い返しても意外なくらい。もっと気をつけても良かったのよねぇ。でも、顔なんてどうだって良かったし、口下手だって全然構わない。ああいう思想を持っている人だもの、そんなに大きなマイナスはないと信じてたの。
ウェイターさんに案内されたのは、幕で仕切られた個室風のテーブル。席に男性が一人。もちろん、それがあの人よ。年齢は三十歳くらいに見えたな、あたしよりちょっと年上な感じ。掲示板での彼の口調を考えると、少し気が弱そうだとは思ったけど、まあ別に問題なし。マンモスの化石を見ていたつもりがよく見るとナウマン象だった、っていうときの落胆よりは小さい。古代史をやったときにね、この二つを区別するとき、南から来たのはナとンがつくからナウマン象で、そうじゃないマンモスが北から、って習ったの。意味わかる? 南だからナンって……莫迦みたいでしょう。これを学校でやったとき、がっくりきたわ……おまけに、このやり方で本当に区別できるようになっちゃったんだから、もう自分に腹が立って。
あたしが「はじめまして」って挨拶すると、あの人はあたしを初めて真っすぐに見た。彼はちょっと目を大きく開いて――これがまた、知的な人の素が見えたって感じで素敵だったわ――でも、うろたえてるの。ありありとわかっちゃった。これって、あたしも動揺よ。同様に動揺。彼がどんな反応をしようと驚かないって、覚悟はしていたつもりだったの。でも、やっぱりそううまくはいかなかった。
あの人は、はっきりと困っていた。でも、あたしは待っていたの。きっと、彼から何か言ってくれる。その言葉は問いかけだろうとも思った。あたしは、あらゆる問いとその答えを想定して、彼を待ったわ。
あの人はずっと黙っていた。下を向いていた。あたしはテーブルの横に立ったまま、あの人が口を開くまで立っていようと決めた。彼はときどき上目遣いであたしの顔をうかがったけど、あたしはずっと彼を見つめていたから、目が合わないようにすぐにそらしていた。辛い時間だった。でも、この時間は絶対に終わる、近いうちに終わる、と自分に言い聞かせていた。
でも、あたしは待ちきれなかった。どのくらいの時間だったのかな、五分か十分か、もしかしたらほんの一分、ううん、もっと短かったかもしれない。ウェイターさんはまだ来ていなかったから。
「座っても、いいですか」
できるだけ、できるだけしとやかに振る舞おうとは思っていたの。でも、声が。声が震えちゃって、しとやかって言うよりは怯えたように聞こえたと思う。正直、不安で泣きそうだった。おまけに、あたしの地声、かなり低いの。かすれてるわ低いわ泣きそうだわで、本当に涙が出るかと思った。
あたしは、椅子に手をかけて、すっと引いた。その瞬間に、ガタッて――ガタッてあの人が、立ち上がった。
あの人は、あの人はね、ずっとあたしを見なかった。見ないで、床に視線を落としたままで言ったの。
「――ごめんなさい」
うわあ、って。あのね、うわあ、ってなっちゃうの。本当。あたし、うわあ、しか考えられなかった。何も覚えてないの。涙も止まっちゃうの。ただ、ずっと、うわあ、うわあって頭の中で回ってた。
しばらく経ってから、ウェイターさんが入ってきて、あたしの前にパンを置いた。ここで、やっと、ちょっと正気に返るのよ。うん、そこまで、どうしていたのかよくわかんない。あたしは椅子に座っていたし、あの人はいなかった。
あたしは、ぼんやりとウェイターさんを見た。どう解釈されたのか知らないけど、ウェイターさんは変わらない無表情のまま、「代金はお連れ様よりいただいておりますので、ごゆっくりどうぞ」って言って、出ていった。ウェイターの鑑みたいに、スムースに出ていった。
(2005.10.05/2006.11.11改)
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