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サチ子、わがままで19歳
Sachiko, she is selfish and 19
サチ子は男を押し倒した。そこはサチ子の部屋だった。男はフローリングの床にしたたかに頭をぶつけ、サチ子はその上に馬乗りになった。
サチ子の顔は透き通るように白く、化粧で非常に美しく彩られていた。微笑をたたえた真紅の唇が、男の上でそっと開く。
「ねえ、あたしを殴って」
男は頭の痛さとサチ子の言動に、苦しげに目を見開いた。
「女の子を殴る男は最低だよ」
かすれた声で、男は漫画で読んだような台詞を口にした。サチ子の長い黒髪が、男の頬をくすぐる。
サチ子は、男を見下ろしたまま、にっこりと笑った。
「ええ、その通りね。さあ、あたしを殴って」
*
男は短大生で、保育士の資格取得を目標とした課程を取っていた。同じ課程を取っているのは二十人ほどで、中に男子学生は三人しかいなかった。男は他の二人の男性とはあまり気が合わず、かと言って特に寂しさを感じることもなく、気楽な気持ちで学校に通っていた。
二年になって、実際に保育所で活動を体験する実習があった。数人ずつ、近くの保育所に振り分けられることになり、男はもう一人の女子学生と二人で同じ保育所に通うこととなった。
実習自体は、男は有意義なものだったと思った。子どもの行動が予測困難であることを、文字でなく身体で知った。しかし、子どもとの交わりは、仕事の一部に過ぎないことも実感した。子どもが帰ったあとは、ひたすら紙をのりで貼り合わせる作業をやった。書類の類も多くあったし、何より、子どもの親との関係作りがいかに難しいかということを身に染みて感じた。
男は子ども好きであったし、理想もあった。それでいて現実を受け入れようというそれなりの覚悟もあった。何もかも順調というわけにはいかなかったが、どうにか実習は無事に終わりそうだった。
男が気になったのは、同じ保育所に来た女子学生だった。その女子学生は、授業も休みがちだったし、課程内の遊びやイベントに参加することもあまりなかったので、男は彼女をよく知らなかった。ただ、とても整った顔をしているという印象は強くあった。
実習中、女子学生は特に問題を起こしはしなかった。与えられた課題は無難にこなしていた。ただ、「子どもと接するときの表情が硬い」と現職の先生に指摘を受けていた。それは男も感じていたことで、女子学生はそれほど子ども好きではないのかもしれないと思った。課程には何人か、保育士になることはあきらめて、卒業のためだけに実習をしているような人間もいた。
実習最終日のことだ。最後だと言うことで、園児たちがお別れパーティを開いてくれた。歌も踊りも、男は何度も見ていたが、それでも嬉しかった。似顔絵のついた紙の首飾りをかけられたときには、ぐっとこみ上げるものがあった。
女子学生もまた、似顔絵付きの首飾りをもらっていた。女子学生に首飾りを渡す男の子は、ずいぶんおとなしく、あまり友達とも遊びたがらない子だった。しかし、なぜか常に女子学生のそばにいたがった。先生も、普段目立つことをやらない男の子が人前に出るチャンスだというので、彼にその役目を任せたのだろう。
男の子が首飾りを持って出てくると、女子学生はかがんで、彼が首にそれをかけやすいようにしてやった。女子学生が顔を上げたら、男の子は感謝の言葉を述べることになっていた。しかし、男の子はなかなか口を開かない。うつむいたままだ。男は、これは言えないかな、と内心思っていた。
女子学生は、じっと男の子を見つめていた。すると、男の子はすっと視線を上げて、男が今まで聞かなかったようなはっきりとした声で言った。
「おねえちゃん先生は、とてもきれいでした」
男ははっとした。女子学生の顔が、明らかにほころんだのだ。それは、子どもが勇気を出して話したから、というような喜びではなかった。
男性に褒められた女性の顔だった。
その笑みを不謹慎だと感じたことを、男は間違っているとは思わない。女子学生は男の初めて見る艶やかな笑顔で、男の子に「ありがとう」と言った。男はその顔をどうにも忘れられない。
その女子学生が、サチ子だった。
*
サチ子は男の上で笑っている。
「俺、どうしてこんなことになったのかわからないよ」
男は情けない声を出すことしかできない。
「どうして俺? 訳がわからない。俺は、君が何か実習のことで話があるんだと思った」
「ん、別に? そんなの、どうでもいいことだけど」
「どうして俺を家に呼んだんだよ。どうして俺にそんなこと言うんだよ」
「あなたにとって、あたしはどうでもいい存在だったでしょう」
「友達だった」
「友達じゃないでしょ。ただ知っているだけ。近くにいるだけ」
サチ子は男の反論を許さない。
「でも、あたしはあなたを選んだの。何か、悪い?」
「わからない」
男の呼吸が荒い。
「わからない。君が何をしたいのか、全然わからない」
「そんなの、どうでもいいじゃない。ねえ、あたしを殴ってほしいだけよ? あなたが殴られるわけじゃない。手はちょっと痛いかもしれないけどね……ねえ、お願い」
サチ子は左手で自分の身体を支え、右手で男の頬をなでる。男は背筋がぞくりと震えるのを感じた。
「殴るときは、手を握ってね。あたしの頬を横ざまに。それとも真っすぐ額を叩く? どちらにしろ、顔にしてね」
「どうして……」
サチ子の指が、男の唇に絹のように触れる。指先でリップを塗るように、男の唇がなぜられた。男は思わず顔を背ける。
「目を開けてよ……ほら、ちゃんとこっちを見て」
男が目をつぶったままでいると、鼻に何かが当たる感触があった。つい目を開くと、すぐそばにサチ子の顔がある。鼻と鼻とが接していた。これだけ近くで見ても、サチ子の肌は化粧のせいだけでなく白く、つややかだった。うまく焦点が合わせられなかったが、サチ子はやはり微笑んでいた。
「殴ってほしいの……いいでしょう? ……ね?」
サチ子は男の上に乗ったまま、男をほとんど抱き締めるような格好になる。男はもう動かない。サチ子を払いのけようとする気力も失っていた。
そして、サチ子は男の耳元で囁いた。
「殴ってくれなかったら、あたし、あなたのことを嫌いになる」
さっと潮が引くように、男の気持ちが冷めた。
「別にいいよ」
「んー、何が?」
「嫌いになってもいいよ。でも、俺は殴らないから」
サチ子に嫌われることは、男にとって大した意味を持たなかった。それを条件としたサチ子が、実につまらない、くだらない女に見えた。
ひどく傲慢で、愚かだった。
「早く降りてくれよ。起き上がりたいんだ。降りてくれ」
しばらく間があって、サチ子は男に巻きつけていた腕を離した。サチ子は身体を起こしたが、男の上からはまだ降りない。
男は、サチ子が泣いているのではないかと思っていた。
しかし、サチ子は笑っていた。
「あなた、夢で女の子と唇を重ねたことはある?」
男は答えない。
「あたしは夢を信じてる。現実なんかより、ずっとずっと」
何て莫迦な女だ、と男は思った。自分の中に、これだけ人を蔑む気持ちがあることを、男はほとんど初めて知った。
「あたし、夢で見たの。あたしはあらゆる男を誘惑して、あたしを殴らせる。あたしを殴った男とはさよなら」
サチ子は男の目を覗き込む。男の頭の中に、視線で喰われる、という思いが走った。
「あたしを殴らなかった男がいたら、あたしはその人にキスをする」
瞬時、サチ子は覆いかぶさるように男と唇を合わせた。サチ子はすぐに顔を起こす。男は口を半分開けたまま、唇に残るべっとりとした口紅の感触を確かめられないでいる。
サチ子は、男を見下ろしたまま、上気した顔で微笑んだ。
「そうして、あたしはスターになるの」
*
サチ子が短大を中退して一年後、男はテレビの中でサチ子を目にした。サチ子はドラマの中で、誰か顔の良い男の妹として歩いていた。サチ子という名前でもなかった。
男は思いがけず笑ってしまった。声を出して笑ってしまった。サチ子の台詞回しは、まるでものになっていなかった。笑い方も、あまりにぎこちなかった。これがサチ子の目指した姿かと思うと、いっそ悲しくなるくらいだった。
男は、自分にたどり着くまで、サチ子は何人の男と関わってきたのだろうかと考えた。もしかしたら、自分が一人目だったのかもしれないと、今になって思う。
サチ子はどうして、こんなにも早く表舞台に出られたのか。どんな手を使ったのか。それを考えると、男は少し恐ろしいような気もした。しかし、サチ子の奮闘する姿を見ると、どうも頬が緩んでしまう。
しかし、それは微笑ましいという気持ちではなかった。もっと直接的で正直な思いが、男の口から自然と漏れた。
――ざまをみろ。
男はテレビを消した。見たいとも見たくないとも思わなかった。何を思う必要もなかった。
(2006.05.27)
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