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与四郎を待つ女
woman waits

 昔の話である。

 私が与四郎を待つ女の噂を聞いたのは、大学二年の夏のことだった。五時限目の講義が始まる前、私は教室で本を読んでいた。隣に座った男子学生は、しきりに汗をふきながらふうふう言っている。小太りなその学生は、自分の着ている白シャツをはたはたとあおいでいた。
 その学生は、講義が始まるまでの時間を持て余したらしく、見も知らぬ私に声をかけてきた。
「なあ、君、与四郎を待つ女の話を知っているかい」
 やけに馴れ馴れしい喋り方の学生だった。しかし、案外に嫌な印象はなく、むしろ話の内容に大きな興味を持った。
「いや、僕は知らない」
「そうか。では、まだ大した噂にはなっていないのだな」
 学生は、そう前置きして語り出した。
「最近、夕方の六時になると通用門の前に、与四郎を待つ女が現れるんだ」
「それは、どんな女なんだい」
「俺は見たことがないのだが、どうやらなかなかの美人であるらしい。色の白い、たおやかな女だということだ」
「きれいな女なら、いいじゃないか」
「しかし、どうも気が触れているようなんだ」
 学生の直線的な物言いに、私は少々たじろいだ。学生はそのまま話を続ける。
「その女は、通用門の前に立って、ときどき校舎の方を覗き込みながら、少し訛りの交じった、か細い声で『与四郎はん、与四郎はん』と呟き続けているらしい」
「それで、与四郎を待つ女というのかい」
「そうだ。それで、俺の友人で、物好きにもその女に話しかけた奴がいる」
「へえ、それで、どうだったって」
「女が言うには、二年ほど前に付き合っていた男がこの大学にいると言うんだ」
「その女は、ここの学生なのか」
「いや、違うようだ。故郷での付き合いだったのだろう。訛りからして西日本の人間だろうということだ。男だけが、二年前に上京してきて、この大学に入ったのだ」
 私は、ふと学生に尋ねてみた。
「まさか、その与四郎というのは、君のことではないだろうね」
 学生は、一瞬顔を引きつらせた。しかし、すぐに元の口調に戻って言い返した。
「莫迦を言うなよ。もしも俺が与四郎なら、どうして君にこんな話をするんだ」
「いや、悪かった。ところで、他に女はどう言っているんだい」
「うん、その付き合っていた与四郎という男が、一年も連絡を寄越さない。下宿を替えたらしく、新しい住所も電話番号も知らされなかった。それで、思い余って女も上京して、この大学の前で男を待っているらしい」
「しかし、それならどうして通用門の前にいるんだ」
「だから、気の触れた女だというのだ。あるいは、無知なのだろう。これだけの敷地がある大学に、入り口が一つしかないと思っている。きっと、最初に通用門を見つけて、ずっとそこで待っているのだ」
「通用門など、誰も通らないだろうに」
「いや、近くに下宿のある者もいて、日に百人は通るだろうということだ。俺の友人がその一人だ」
 実際には、通用門の他に正門、北門、南門が存在する。私は、北門を利用していた。通用門からはかなり離れている。
「その与四郎というのはどうしたのかな」
 私がそう言うと、学生は得たりとばかりに言い出す。
「それだ、それだ。僕の読みでは、与四郎にはもうとっくに別の恋人が出来ているだろうね。あの女は捨てられたんだ」
 当然、そう考えるだろうな、と私は思った。同じ話を聞いた十人が十人、この考えに行き着くだろう。
 教室に、教官が入ってきた。私が教材を広げていると、隣の学生が早口にこう持ちかけてきた。
「この講義が終わったら、与四郎を待つ女を見に行こう」
 私は、考える間もなく頷いていた。

 午後六時を過ぎるのを待ち、私は学生に連れられて通用門の方へと歩いていった。女についての話が途切れたとき、私は学生の名前を尋ねようかと思ったが、結局何も聞かなかった。学生も、私の名前には興味がないようだ。
「ほら、あれだ」
 学生は、小声で私に囁いた。私はその声につられて、帽子で顔を隠す。
 女は、通用門の外に立っていた。ごく頻繁に、門の内側を覗き込む。私と学生は、さりげなく通用門に向かって歩きながら、彼女の顔を見ようとする。幾度か彼女と目が合いそうになり、私は慌てて目を伏せた。
「なるほど、これは美人だ」
 学生は私にだけ聞こえるように囁く。私も頷いた。女は確かに色白で美しかった。しかし、ずいぶんやつれていて、不健康に見えた。髪も、あまり手入れをしていないようだ。
 女に手が届くほどまで近づいたとき、不潔な臭いが鼻をついた。そういえば、この女はどこに住んでいるのだろうか、と私は考えた。きっと、あまり風呂に入らない生活をしているのだろう。
 私と学生は、女の横を通り過ぎる。
 女の口が、かすかに動いた。
「与四郎はん」
 聞こえた、と思った。
 私は、女を見なかった。
 角を一つ曲がり、通用門と女が見えなくなってから、学生が口を開いた。
「どうだった」
「確かに、与四郎という名を呟いた」
「そうか。俺はわからなかったがな」
「あれで、気が触れていると言うのか」
「あれを毎日やるから、そう言うのだ」
 私たちは並んだまま、黙って歩いた。私は、努めて何も考えないようにしていた。
「しかし、女は気の毒だ」
 学生が、突然言い出した。
「気が触れたといっても、はじめからそうだったわけではあるまい。与四郎という男に捨てられて、そうなってしまったに違いない。君、あの女の風貌を見て気付いたことはなかったか」
「美しかった」
「そう、美しかった。しかし、頬はこけていた。髪は乾いていた。嫌な臭いがした。それでさえ、あの女は美しくあろうとしている。それは何のためだ。与四郎という男に見せるためだ。与四郎という男に、自分の美しい姿を見せるためだ。だとしたら、君、あの女が待ち続けているというのは、非常に残酷なことだよ」
 学生は興奮していた。心なしか、目じりに涙がにじんでいるようにも見えた。私は、慎重に言葉を選んで答えた。
「まったく、残酷だ」
 学生は、少々拍子抜けしたようだった。しばらくの沈黙の後、私は口火を切った。
「君に、聞いてほしい意見がある」
 学生は、私の方から話し出したので驚いたようだった。
「何だい」
「僕は、心理学を専攻している。その立場から、あの女を見ていて思いついたことがある」
 学生が足を止めたので、私は彼に合わせて立ち止まった。
「はじめから、与四郎などという男はいなかったのではないかな」
「どういうことだ」
 言っていいのか、と私は迷った。しかし、それは一瞬だった。
「君は、女ははじめから気が触れていたわけではないと言ったが、僕はそうは思わない。そもそも、与四郎という男と、その男にまつわる話に関する情報は、女の話しかない」
「女が嘘をついていると言うのか」
「そうではない。女は、与四郎という男がいて、それがかつて自分の恋人であったと思い込んでいる。しかし、実際には全てが女の妄想だと僕は言うのだ。いや、もちろん、どこからが妄想でどこからが事実なのかは、わからない。しかし、与四郎という男が実在するという可能性は、かなり低いと思う」
「見ただけで、それだけのことがわかるものなのか」
「女の行動は不可解だ。君は、与四郎という男に振られたことで女の気が触れたと言うが、人間はそう簡単におかしくなるものではない。何か別の、大きな要因があったと考える方が自然なんだよ」
「そうかね。しかし、女は真剣に与四郎という男を愛していたのかもしれないよ」
 私は黙った。
「気が触れるほど、真剣に」
 学生は、ゆっくりと言い足した。
「君は」
 痰が絡んだ。私は咳払いをして、言い直す。
「君は、女を気の毒だと言った。本気でそう思うのなら、一番良いのは、放っておくことだ。女の噂を広めようなどと考えないことだね。女は、自分の妄想の世界にいたほうが幸せなのだ。少なくとも、その世界では女に恋人がいたのだ。たとえ、存在しない与四郎という男を待ち続けることになったとしても、それは現実の世界に引き戻されるよりは、女にとって幸せなことだろう」
「そうだろうか」
 学生は、やや不得要領な顔をしたが、やがて「わかった」と言った。
「女のことは、通用門を通る人間なら知っているだろうが、今まで話が広まらなかったということは、大した興味は持たれていないのだろう。俺はもう、この話をするのはやめよう。俺の友人にも、そう言っておく。君は、そうするのが良いというのだな」
「そうだ。僕も、この話は忘れよう」
 私は、これで全て終わったと思った。だが、学生は真面目な顔でもう一言付け加えた。
「しかし、俺は忘れないよ」
 次の角で、私と学生とは別れた。学生は足早に去っていったが、私はしばらくその場に立ち尽くした。目を瞑り、眉間を押さえる。身体まで、非常に疲れていた。

 私はその夜、違う大学に通う恋人に電話をかけた。彼女と私とは東京に来てから知り合ったのだが、同じ故郷の出身だ。話しているとつい御国言葉が口をつく。私は上京してから、彼女と話すとき以外に地元の言葉を使ったことはまったくない。
 私は結局、あの学生の名前を聞かなかった。もちろん、学生も私の名前を知らない。
(2005.06.02)

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