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恋するウサギはぬいぐるみ
a stuffed rabbit falls in love

 ウサギは大樹に買われてきた。彼が高校に入学する前の春休みのことだった。ウサギは、あたたかな春に大樹と出会えた自分を、とても幸せだと思った。
 ウサギは大樹にひとめぼれだった。大樹もそうだろうとウサギは思っていた。ピンク色でまるまるとした手触りの良いウサギを手に取るには、大樹は不釣り合いに思われるだろうから。もちろん、ウサギはそんなこと気にしなかった。
 家族の誰にもばれないように、ウサギはこっそりと大樹の部屋に運び込まれた。そして、ベッドと壁の間に隠された。ウサギはますます、自分が大樹にとって特別な存在なのだと感じた。
 ウサギはずっとベッドの脇にいた。ときどき、自分は大樹に忘れられるのではないかと心配になった。しかし、思い出したように手が伸びてきて頭をなでられるたびに、ウサギは安心した気持ちになった。表情を動かせるなら、口元を緩めているだろう。ウサギの存在は大樹以外の誰にも隠されていたし、その秘密はウサギをいっそう甘美な思いにさせた。
 あるときから、大樹がウサギをなでる頻度が増した。一ヶ月に二、三回が、毎週になり、三日に一度になった。ウサギは幸せな気がしていたけれど、四日間連続で引っ張り出されたときは、少し心配になった。大樹の顔が見るたびにつらそうになっていくのに気付き、ウサギは苦しかった。
 反動のように、ぷっつりと大樹になでてもらえなくなった。それから、ウサギは耳をすますようになった。ウサギは耳で音を聞いているわけではなかったけれど、長い耳を立てるようにして周りの様子をうかがった。
 部屋の中にいるときは、「ちくしょう……」という呟きをウサギは何度か聞いた。部屋の外から大樹の怒声が聞こえてきたときは、逃げ出したくなった。それに言い返す女性の怒鳴り声も耳に入り、あれが大樹のお母さんだろうか、とウサギは想像した。決して、気持ちのいい想像ではなかった。
 事情はいつまでもわからなかった。ただ、怒鳴り声が聞こえてくることが多くなった。部屋にいるときに大樹がもらした言葉もできるだけ聞き取った。その断片をつなぎ合わせて、ウサギは大樹を苦しめているものを理解しようとした。それは寂しさであるようにも、甘えであるようにも思えた。未熟さだ、と言い切るにはウサギは人の事情を知らなかったけれど、そんな気もしていた。大樹が傷付いているらしいこと、そしてもしかしたらそれ以上に、大樹が人を傷つけているらしいことが、ウサギを悲しませた。ベッドの脇から出ていけないことが悔しかった。
 大樹の呟きに「俺は悪くない」という言葉が交ざり始め、ウサギは気が重かった。もれる音から様々な情報を得たウサギには、大樹が何もしていない、とは思えなかったのだ。しかし、ウサギは自分を買ってくれた大樹のことを思い、すぐに心を決めた。
 ――理由は何も関係ない。
 なぜなら、ウサギはぬいぐるみだから。
 ――私はいつも大樹の味方。
 数日後、ウサギは今までで一番大きな女性の怒鳴り声を聞いた。次いで、ないはずの胃が痛むような沈黙。そして、再びの怒鳴り声。「うるせぇんだよ」という冷たい声が確かに大樹のものだったので、ウサギは止めにいきたかった。ベッドの横に挟まれて、ウサギはただただもどかしかった。ウサギの聞きたくない言葉がもれ聞こえてくる。そして、大樹が誰かを殴ったらしいということがわかった。
 やがて、階段を乱暴に駆け上がる音が聞こえ、すぐに部屋のドアが開いた。鍵をかける音。ベッドが揺れるのがわかり、ウサギは大樹が横になったことを知った。ウサギは何か言葉をかけたかったけれど、何もできない。ベッドの上から苦しげな声がするので、ウサギは必死に耳をすました。初めて聞く音だったが、すぐにわかった。大樹は泣いているのだ。
 ウサギは、大樹が泣くのをじっと聞いていた。「莫迦野郎、莫迦野郎、莫迦野郎、莫迦野郎」と、心があれば痛むような響きがウサギの中に染み込んできた。しばらく苦しげな嗚咽がもれた後、「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」というさっきよりも抑えた声が聞こえてきた。
 ――大きな声で泣けばいい。
 ウサギはそう思った。
 ――大きな声で泣けばいい。大樹の家族に聞こえるように。
 ウサギは、大樹は周りに気を使いすぎるのだと思った。自分の中で全てを収めようとしすぎるのだと。それが正しいかどうかはどうでもよく、とにかく大樹に楽になってほしかった。自分も一緒に泣いてあげたかった。けれど、ウサギはぬいぐるみだったので、涙を流すことができなかった。
 ――手が長ければ抱きしめるのに……。
 ウサギは滑らかな手触りに誇りを持っていた。大樹がそれを気に入ってるということにも確信があった。
 ウサギは大樹と出会ったときのことを覚えている。ショッピングモール内にあるぬいぐるみ売り場の前で、ウサギはじっとしていた。そこに通りかかった大樹に、ウサギは不意に頭をなでられた。ウサギは、今まで知らなかったあたたかさを初めて覚えた。毛が逆立つようだった。ウサギは、何度も何度も、ゆっくり頭をなでられた。圧倒的な幸福感に、ウサギは人間の少女のように酔いしれた。その気持ちは大樹も共有しているのだと直感した。ウサギはずいぶん長い間頭をなでられ、そして大樹に買われていった。
 突然、ウサギは光が差し込んできたことに気が付いた。布団が動かされ、ウサギは大樹の手が自分の手を握ったのを感じた。一瞬、ウサギは真っ赤な目の大樹と視線が合った。そして直後、大樹に抱き寄せられた。
 ウサギは大樹の顔を胸で受け止めた。涙が身体に吸い込まれていくのを感じた。そのまま頭をなでられた。冷たい手だった。ウサギはいつになくきつく抱きしめられていた。しかし、やわらかさを損なわないように、あくまでも手はそっと置かれていることを、ウサギはわかっていた。
 大樹のうめくような泣き声が弱々しくなっていくのにウサギは気付いた。心臓の音が落ち着いていくのもわかった。大樹に自分の鼓動を伝えられないのが、ウサギは残念でならなかった。ふっと、大樹の心臓は自分の心臓だ、と思った。
 おだやかに時間が経ち、ウサギは大樹の寝息を聞いた。身体は大樹の腕に包まれたままだ。胸のあたりはまだ湿っている。
 よかった、とウサギは思った。しかし、満足感よりはむしろ、奇妙な幸せをひたすらに感じていた。
 ウサギは、呼吸でたとえるなら、深く息を吸い、はいた。
 ――朝が来るまでずっと暇だわ。
 胸に優しい重みを感じながら、ウサギはやっぱり大樹を抱きしめたかったと思った。
(2006.03.27)

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