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おばさんと、犬が二匹。
a madam and two dogs
会社の前でバスに乗り、すぐに携帯電話を開いた。アドレス帳の一番最初にある名前を、カーソルを動かさずに選択して、メールを打ち始める。
サブジェクトに「ごめんなさい」と入れたところで、バスは走り出した。私以外に乗客は三人しかおらず、それぞれが一人だ。ビル街の中を、バスはゆっくりと進んでいく。
メールの本文にも、まずは「ごめんなさい」と打ってみた。それから、別に大したことじゃないのよ、という風を気取って、会う約束をしていた日に急な仕事が入ったことを書いた。そのまま送信ボタンを押そうとして、再び本文にカーソルを戻す。
窓の外をちらりと見る。この辺りに立ち並ぶビルの中身を私は知っている。名は知れているけれど、どうしても一流とは呼ばれない企業。表舞台に立つことなく、関係者以外には存在を認められない企業。夢だけは目一杯詰め込んできたベンチャー企業。この三種類がそれぞれ無数にあり、ごちゃまぜになってコンクリート製の箱に収まっているのだ。そして私も、二番目の種類の企業で、歯車ですらない、釘の役割を担っている。
わかってはいる。細釘一本であろうと、抜けてしまえば壁がはがれる恐れが高まることを。それは単なる可能性であり、実際には他の釘が十分に壁を押さえる役目は果たしてくれているのに。ただ、可能性がある限り、釘は勝手に抜けることはできない。
携帯電話の画面に目を戻す。メールの最後に「また、誘ってね」と打ち込んだ。これで送信しようとしても、指が動かない。何度も、本文に戻っては、送信ボタンに手をかける。
ある特定の釘にしかできない仕事がある、というわけではなかった。たまたま、抜けてはいけない位置にその釘が打たれていた、というだけだ。別の釘が抜けたのだろう、その上、私まで抜けたら壁が本当に脆くなってしまう。可能性だった事象は、現実になった。
再び、顔を横に向けた。周りの乗客に聞こえない程度に、深く呼吸した。三種類の企業も、同じ箱の中で淀んでいる内に、どれもこれも似てくる。誰もが、時計の針が回るように、ただ黙々と仕事をしているのだ。
私を誘った人の顔を思い浮かべた。その日付が持っていた意味を思った。そして、必死に壁にしがみつく錆びかけた細釘をイメージした。
私は両手の親指を素早く動かした。指が絡むほどのスピードで回り、途中で自分が何を考え何を打ち出しているのかわからなくなってしまった。気が付くと、メール本文には約束を守れないことへの言い訳が分厚く羅列されていた。全て自分の頭の中にあったものとは思いたくないような、情けない言葉だらけだった。
バスが止まった。何かと思えば、ただ信号に引っかかっただけだった。低いエンジン音の中で、私は疲れて目を閉じた。
ふと、犬の鳴き声を聞いたような気がした。ぱちりと目を開き、もう一度視線を窓の外にやる。はたして、そこに犬はいた。しかも、二匹も。
夕方のビル街に、それは似つかわしくない光景だった。くすんだ銀色や灰色をした街の歩道に、大きな犬が二匹いる。ただ、それは野良ではなかった。首輪と紐とでつながれ、その先を五十歳くらいのおばさんが握っていた。セーター姿で、家からそのまま出てきたようだ。どうしてこんなところを散歩しているのだろう。私は、だんだんバスに近付いてくる犬とおばさんをじっと見ていた。他の乗客は、誰もそちらに目をやっていない。
二匹の犬は、それなりにおばさんに懐いているようだったが、決して従順ではなかった。おばさんは両手に一本ずつ紐を持ち、ときどき横にそれて歩こうとする犬を紐で引き寄せながら歩いていた。横を歩くビジネスマンに近寄っていく犬もおり、おばさんは恐縮しているようだった。ビジネスマンたちの表情は見えない。誰か一人でも、犬に笑いかけてみたのだろうか。
ちょうどおばさんが私の真横に来たところで、信号が変わったらしく、バスがうなりをあげた。その瞬間だった。何を思ったのか、二匹の犬が同時に、それぞれ右と左の真逆に向かって駆け出した。空耳だっただろうけれど、おばさんの短い悲鳴が聞こえた気がした。両手に持った紐が反対方向に引っ張られたので、おばさんは、ぴん、と両手を伸ばして大の字になった。
ぽかん、と私が口を開けている間にバスは走り出し、おばさんの姿は小さくなった。バスは角を曲がったので、すぐに全く見えなくなった。
私は前の座席の背もたれを見つめて、くくっ、と咽喉で笑った。見事な大の字のポーズになったおばさんの姿を思い出し、もう一度笑った。会社を出てから、初めて明るい気分になった気がした。
ふと視線をずらすと、斜め前の席に座っている女性が一瞬だけこちらを見たのと目が合った。はっ、と私はうつむいた。それから、さっきのおばさんと犬、そして周りのビジネスマンたちを思い出して、自分はあの中で、どの役どころを演じられるだろうかと思った。
私は手に携帯電話を持っていることに気が付いた。未送信のメール。私はそのメール自体を削除した。あらためて新規メールを立ち上げ、約束の日に会えなくなったことを謝罪し、別の日ではどうかと尋ねる内容を打ち込んだ。誤字がないことを確かめ、すぐに送信ボタンを押した。
携帯電話を閉じる。バスは、私の降りる一つ前のバス停を発車するところだった。降車ボタンを押し、私はもう一度おばさんの姿を思い出した。そうしたら、今度は何だか泣けてきた。スーツの袖口で目をこすると、返信を知らせる携帯電話のライトがぼんやりと光っていた。
(2006.03.10)
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